2005.05.15付紙面より
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写真= 25年前のRCサクセションのコンサート以来、2度目の取材でした。私と同じ年代なのに、そのエネルギッシュさと若々しさにびっくり。ロック人生一筋かと思ったら、私と同じ自転車が趣味と聞いて、またまたびっくり。それも中年になって始めたということで3度目のびっくり、です。取材後、鈴鹿のサイクルレースの話題で盛り上がると、以前に増して親しみがグーンとわいてきました |
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(撮影・柴田隆二) |
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反骨のロック人生貫く
反骨のロックスターが今年、35周年を迎えた。忌野清志郎(54)。社会問題を取り上げるミュージシャンが少ない日本で、文字通り孤軍奮闘してきた。ド派手な衣装と過激なメーキャップで、愛と平和を叫び、メッセージ性の強い曲をポップなメロディーに乗せて歌い続ける男が、日本ロック界への怒りはもちろん、ロックと家族の両立に成功した? 意外な一面も語った。
自転車に乗り
取材場所の所属事務所はビルの2階にあった。エレベーターを待っていると、自転車を引いた清志郎と出くわした。
−−自転車でここまで来たのですか
「CM収録がありましてスタジオまで自転車で行きました。27キロぐらいかな。向かい風が強くてまいりました。帰りは日も暮れちゃったんで、車に積んできましたけど」。
−−仕事場に自転車で行くことも多いとか
「車に乗せられていくと、スタジオに着いても、そこから自分を活性化させないといけない。自転車だと乗った瞬間から活性化されます。そこがいいんです」。
自転車に乗るロックスター。5年前、なだれで生き埋めになった息子を自力で救助した老人の話を偶然聞いたことがきっかけだ。昔の人の鍛えられた足腰の力に感動。一念発起して東京から鹿児島までの自転車旅行を決意した。距離約1422キロ。30代はポルシェ、子供ができた40代は4WDが移動手段。なまった体を鍛える自転車旅行に友人を引き込み、10日間で完走。以来、ペダルをこぐことが習慣になった。公演後に肩こり、腱しょう炎に悩まされたこともあったが、自転車に乗るようになってなくなった。声もよく出るようになった。
「おちょくる」
−−今年で35周年です
「実感ないです。数えてみたら、本当は28年ぐらいだったりして(笑い)。始めたころは、こんなに長くやっていられるとは、思ってなかったな」。
−−社会的な問題も積極的に取り上げてきました。新アルバム「GOD」にも反戦、児童虐待などをテーマにした歌があります
「日本で“大御所”と言われる連中は、そういう曲を歌わないよね。誰とは言わないけど(笑い)。触れようともしない。作ったはいいが、よく分からないラブソングみたいなものばっかりじゃ、ちょっと大人として情けないというか、恥ずかしくねえかっていうのがありましてね」。
−−外国ではトップミュージシャンたちが政治問題も歌う
「ボブ・ディランとかそうじゃないですか。大統領の名前を使ったりして。スティングもそう。しかもそういう歌が自然にヒットする。日本にそういう音楽がないことを変に感じません? この人、一体何が言いたいんだろうって歌ばっかり。あきれるね」。
−−音楽を始めた時から問題意識があったのですか
「とりあえずフォークブームの時は、ほとんどが反体制の世界。反体制というものをどこかで持っていないと、ミュージシャンじゃないぐらいの空気があった。そのうちベトナム戦争反対! です。何が何でも反体制。(60年代後半に活躍した名ロックギタリストで反体制の象徴ともいわれた)ジミ・ヘンドリックスなんて、今になって聴いてみると、反体制でも何でもない(笑い)。伝記を読むと最初はベトナム戦争に賛成してたんだもん(笑い)。そのうち、日本ではニューミュージックやキャロルのロックンロールとか始まって、そういう空気がなくなった。日本で誰もやらなくなった。じゃあ、やってやろうじゃねえかっていう感じですかね」。
−−原発反対、首相こき下ろし、税政批判、パンクロック調の「君が代」など、物議をかもす曲を次々と発表して権力や富を挑発してきました
「納得がいかないからですかね、そういうことに。歌わないと一生後悔するような気がしてくるんです。別に戦っているつもりじゃない。どちらかと言うと、おちょくってるぐらいの感じかな」。
−−歌詞がきちんと聴こえないロックが多い中、歌詞がしっかり聞き取れる歌い方が特徴的ですが
「ビートルズ、ローリングストーンズ。影響を受けた音楽がそういうものばかりだったからでしょう。何を言っているか分からないって、インチキくさくないですか? ニセモノっぽいというか。本当は歌がうまくねえんじゃねえのって。自分で作った歌ですから、何を言っているのか分かってほしい。それはこだわってます」。
−−音楽で世界は変わりますか
「残念だけど、そこまで力があるかどうか。イラクの自衛隊派遣、北朝鮮の拉致問題、誰でも何かがおかしいと思うはず。それをどんどんポップな感じで歌っていけば時代に合っていくんじゃないかと。種をまいている感じですかね」。
重大な危機!?
−−反骨のロック人生にも重大な危機があったとか
「17年前、カミさんが妊娠した時。本当に焦った焦った。子持ちのロックンロールがイメージできなかった。オヤジになった忌野清志郎が想像できなくて。絶対これはやばいなと。生まれたら、もうロックなんかできないと本気で思ってました。どんどんおなかがふくれてくるし、もうどうしたらいいんだと必死に考えました」。
−−結論は
「生まれたことをひた隠しにする(笑い)。それで生まれるまでに思い切りたくさん曲を作る。それを年に1、2枚小出しにして、食いつなぐ(笑い)。本気で思ってました。1カ月間ほとんど寝ないでスタジオにこもり、40曲ぐらい作りましたもん」。
−−誕生後は
「こんなにかわいいものが世の中にあったのかって(笑い)。隠すどころか、かわいいんだと自慢したくてしょうがなかった。仕事場にも連れていきました。子連れ狼(おおかみ)みたいにベビーカーをガラガラ押して。子供にはいろいろ教えられました。好きなことはやるけど、嫌なことは泣いてやらない。バンドが解散したり、レコード会社ともめたり、社会や人間の嫌なものをだいぶ見てきたけど、こいつは何て自由なんだと。価値観が変わりました。音楽への影響? ロックの危機ってことはなかったなあ。一体あの焦りは何だったんでしょうね」。
−−長男が高校2年、長女が中学2年。子供たちが将来について自分の想像を超えるようなことを言い出したら?
「自分のことを振り返って考えると、むやみに反対はできないよね」。
−−どういう意味で?
「高校の時、美大に進むつもりだった。3年になると受験用のパターンに切り替えるからと言われて、一気につまらなくなった。ちょうどバンドもやっていて、そっちがうまくいき始めた。オーディションも受かってデビューも決まったのですが、母親が猛反対したんです」。
−−何と言って反対を
「芸能界は恐ろしくて、ヤクザの世界。だまされて人間としてダメになっちゃうと(笑い)。心配になって朝日新聞に相談の投書もしたんです。『ギターにこる子供が、大学にも行かずプロになると言い出して、何が何だか分からなくなりました』って(笑い)。新聞に載ったのは、その時が初めて(笑い)」。
−−結局は
「しばらくやらせてみては、と答えが書いてありました(笑い)。その後、高校の先生に相談したら『大学に行っても4年間遊ぶだけですから、大学に行かせるつもりでやらせてみたら』と言われ、結局は『やってみなさい』と落ち着きましたが、プロになっても『あのうるさい歌は何とかならないのか』となかなか認めてくれませんでした」。
−−お子さんたちは将来についてどんなことを
「娘が勉強が嫌いで高校に行きたくないと言い出して。子供たちの卒業式に行ってライブをしたこともありました。何か伝わればいいなって。だから、ギターでも練習して曲でも作れるようにならないとダメだよって言いましたが、音楽にはあまり興味がないみたいなんです。どうしましょうか(笑い)」。
「RC」復活を
高校の同級生、俳優三浦友和(53) 「どんな人なのですか」とよく聞かれますが、何十年付き合ってきても、この人は説明できません(笑い)。摩訶(まか)不思議な、といった感じでしょうか。最近少しやわらかくなりました。会話もはずむようになりました(笑い)。私が俳優の道に進んだのは、彼がデビュー当時ホリプロに所属していて、そのスタッフが誘ってくれたことがきっかけです。無関心のようでしたが、デビュー作はしっかり見てくれてたそうです。35周年になるそうですが、ぜひRCサクセションを復活させてほしい。何と言っても僕は、RCの忌野清志郎の大ファンですから。
◆忌野清志郎35周年記念全国ツアー 5月20日の札幌を皮切りに仙台、名古屋、神戸、福岡をへて7月7日の広島まで全国14公演を行う。
◆忌野清志郎(いまわの・きよしろう) 本名栗原清志。1951年(昭和26年)4月2日、東京都生まれ。都立日野高時代の69年「RCサクセション」として東芝主催のオーディションに合格。70年「宝くじは買わない」でデビュー。72年「ぼくの好きな先生」、80年「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」がヒット。81年から毎年恒例となる日本武道館単独公演を開始。91年、RCサクセションの無期限休止を宣言し、ソロ活動を開始した。3月に35周年記念盤「GOD」を発売。20日から記念全国ツアーを行う。168センチ。血液型A。
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