ちまたから「スーパーボランティア」と呼ばれ、新語・流行語大賞に選ばれても辞退し、普段通りの自分を貫く尾畠春夫(おばた・はるお)さん(79)がこのほど、日刊スポーツの単独取材に応じた。応募者が募集人員に達したものの「ブラック」「やりがい搾取」「有償にすべき」などと後味の悪い論争が繰り広げられた2020年東京五輪・パラリンピックのボランティア。利己的な議論が横行しがちな昨今、あらためて「ボランティアとは何か」を尾畠さんに聞いてみた。【三須一紀】


79歳になってもボランティアに従事できるのは、強い体で生んでくれた母のおかげだと感謝する尾畠春夫さん。有名になった「つなぎ」も披露してくれた(撮影・三須一紀)
79歳になってもボランティアに従事できるのは、強い体で生んでくれた母のおかげだと感謝する尾畠春夫さん。有名になった「つなぎ」も披露してくれた(撮影・三須一紀)

宮沢賢治「雨ニモマケズ」の詩がここまでピタリと合う現代人が、他にいるだろうか。

今年8月、山口県周防大島町で行方不明になった2歳男児を山中で発見し、一気にその名が知れ渡った尾畠さん。東日本大震災をはじめ、多くの被災地で災害ボランティア経験を重ねてきた経歴もあり「スーパーボランティア」と呼ばれるようになった。

2歳男児を救出し、その親族が食事や風呂を薦めても「水ぐらいは呼ばれるが、あとはいらない」と断るシーンがテレビで何度も流れた。

世間の過剰な注目を受け「神経がおかしくなった」と寝られない日々が続き、体重は4、5キロ痩せた。ただ内面は何も変わらなかった。

大分県内の自宅。取材中に電話が鳴った。ある中学校の校長からの講演依頼だった。講演や取材依頼はほぼ断っているが、7、8回目の電話という熱意に「根負けした」という。依頼は受けたが、先方からホテル予約の話になると「学校の職員室の1畳分ぐらいを貸してくれればええ。自前の寝袋を持って行く。グラウンドでテントでもいい。水道水やお茶ぐらいは呼ばれるけど、食事もいらん」と言い続け、電話口の校長も音を上げた様子だった。


ボランティア時も自宅でも寝具はこの寝袋
ボランティア時も自宅でも寝具はこの寝袋

ボランティアがない時期は、夜は早めに寝て、午前3時に1度起き、NHKラジオで歌番組を聞く。また寝て朝5時過ぎには家を出発。趣味の登山など、野外での活動に励んでいる。

今年はある意味、ボランティアに注目が集まった。尾畠さんの「スーパーボランティア」と、もう1つは「五輪ボランティア」だ。約790キロ先で開催される20年東京大会のボランティア問題について聞いてみると「私が行くべき場所ではない」と予想通りの答えが返ってきた。

五輪ボランティアを巡ってはインターネット上で「ブラック」「やりがい搾取」「有償にすべき」とさまざまな批判が噴出。そもそも、10万人規模の無償ボランティアがいなければ大会が運営できない仕組みを構築したのは国際オリンピック委員会(IOC)だ。IOCメンバーが会見で「やりたくなければ、やらなければ良い」と発言したことも、批判の対象になった。

一方で、日本においてボランティア文化が成熟していないという指摘もあり、両者に課題点がある。だが、この議論、尾畠さんの言葉を使えば「屁(へ)の突っ張りにもならない」。

「ボランティアとは、何があっても自己完結」。だから見返りなど考えてはいけないという。ノルマでも義務でもない-。だから五輪ボランティア問題の矛盾に、違和感があった。

尾畠さんがボランティア活動を始めたのは65歳。新潟での中越地震だった。11年3月に起きた東日本大震災では発生17日後に宮城県南三陸町に入った。ダイハツの軽自動車で片道約1870キロ、60~70時間、下道を走り続けた。ガソリン代は2万1800円。往復となれば、年金1カ月分の5万5000円のほとんどが消えた。

食事は3個198円のパック飯。温めはせず、農家に嫁いだ姉からもらった梅干しをのせ「味を全体になじませるため」水をかける。他には5個198円の即席ラーメン。キャンプ用の小さなガスこんろを持参し調理するが、トッピングは、オオバコ、ヨモギ、ヒヨコ草、シロツメクサ、ドクダミなどの雑草だ。


ボランティアに行く際は必ず持参する梅干しを見せてくれた尾畠春夫さん
ボランティアに行く際は必ず持参する梅干しを見せてくれた尾畠春夫さん

南三陸町では「思い出探し隊」の隊長として、主に津波で流された写真を捜索。多くの人が津波の犠牲になったが全てが流され、遺族の手元には、思い出の品すら残らなかった。写真だけでもと、町長自ら尾畠さんを隊長に任命した。

3月はまだ寒く、雪が降った。写真だけでなく、カバン、筆箱、背広、靴…。あらゆる品々を津波現場から探し出し、水で洗い、自身のテントの中で乾かした。

津波現場の悲惨さを見て、酒も断った。それまでは「私は飲む方じゃない、浴びる方」という酒豪で、ウイスキーのオールドパーが大好きだった。だが、きっぱりと「東日本大震災の仮設住宅が全てなくなるまで飲まない」とやめた。

今夏は西日本豪雨の災害現場で、暑さに負けず、土砂の撤去作業などに従事し、復旧に貢献した。

自身も「真のボランティア」という理想像を持ち続ける。原動力は65歳まで36年間、営んだ鮮魚店を支えてもらった人の温かさだという。「社会に支えられた。万分の1かもしれないけど、そのお返しがしたい」。だが、現在の境地に至るまでを語るには、尾畠さんの半生を振り返る必要があった。


自宅の壁に貼ってある尾畠春夫さんが考える「三配り」
自宅の壁に貼ってある尾畠春夫さんが考える「三配り」

小学4年の時、最愛の母が病死した。7人きょうだいの4番目、三男だった尾畠さんは父から「一番飯を食べるから」と、小5になり1人だけ家を出され、農家の奉公に出された。

中学を出るまで5年間、家族と離れ、ひたすら他人の家で農作業に従事。中学には3年間でトータル4カ月しか通えなかった。卒業間際、担任に呼ばれた。「このままでは出席日数が足りず、卒業できんぞ」。

尾畠さんは「義務教育9年」という言葉も、国民の3大義務も分からなかった。「『正』の字が精いっぱい。5画以上の漢字も書けなかった」。それでも、どんでん返しで卒業が決定。「今思えば、先生がクビをかけて、出席日数を書き換えてくれたんだろう」と感謝した。

姉から「あんたは元気だから魚屋をやりなさい」と薦められた。別府市内の鮮魚店に3年間勤め、その後3年間は山口県唐戸で、ふぐを勉強。腕を試そうと大商業地を目指し、神戸で4年間修業し、課していた10年間の修業を終えた。

別府で鮮魚店を開業するため、その前にとび職で軍資金をためた。そして1968年(昭43)4月に結婚し、同11月、晴れて店を開店。以後36年間、店を畳むまで1度も赤字になったことはない。「温かい人たちが魚を買ってくれた。何で自分のために、ここまでしてくれたんだろう」という思いが今もある。


尾畠春夫さんの自宅にあった張り紙
尾畠春夫さんの自宅にあった張り紙

過酷な生活を強いられても病気に伏すことなく、現役で肉体仕事にも耐えられている。「ここ11年間、健康保険証すら使っていない」と笑い飛ばした。丈夫な体をくれたのは母だった。「おふくろのおっぱいを、いっぱい飲ませてもらったから。おふくろのおかげ。あの世に行ったら、母ちゃんに思いっきりハグしてもらいたい」。

今、この世に自分が生きていること自体に、恩返しするためボランティアに励んでいる。「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と書いた賢治と尾畠さんがかぶる。五輪ボランティアでもめた論争は、はるかかなたの出来事のように感じた。


尾畠春夫さんの自宅の壁にあった張り紙には「おはようございます」の英訳、韓国語訳、中国語訳が書いてあった
尾畠春夫さんの自宅の壁にあった張り紙には「おはようございます」の英訳、韓国語訳、中国語訳が書いてあった