92年バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎで、当時14歳の岩崎恭子さん(40)は夏季大会平成最初の金メダリストになった。名言の「今まで生きてきた中で一番幸せです」は、実は予選突破後、コーチのひと言がよんだものだった。岩崎さんが当時を振り返るとともに、新時代への期待を語った。昭和、平成と幾多の人々がつないできた五輪ストーリーは、20年東京五輪で「令和」の新時代を迎える。【取材・構成=益田一弘、荻島弘一】


スポーツ文化を「つなぐ」としたためた金メダルを手に笑顔を見せる岩崎恭子氏(撮影・鈴木みどり)
スポーツ文化を「つなぐ」としたためた金メダルを手に笑顔を見せる岩崎恭子氏(撮影・鈴木みどり)

岩崎さんにとっての名言は、これだったかもしれない。

「もう1回泳ぐからね」

92年7月27日、バルセロナ。当時14歳の岩崎さんは200メートル平泳ぎで予選に登場した。隣のレーンは世界記録保持者のアニタ・ノール(米国)。金メダル本命の相手に、後半から追い上げてわずか0秒01差で全体の2位通過。2分27秒28は、長崎宏子の日本記録を9年ぶりに更新した。

岩崎さん 彼女(ノール)は予選で流して泳いでいると思った。自分でもまあまあ速いと思ったけど、思った以上のタイムだった。タッチした瞬間、ノールが自分のタイムも見ないで、私の方をバッと振り返ったのを覚えてる。

当時、世界ランキング14位で目標は「一応、決勝進出」だった。活発な14歳は「やったー」と喜びを爆発させた。

岩崎さん 半信半疑というか。決勝に進んで日本記録も更新。正直、こんなにお土産を持って、もうこれでいいかなと。クールダウンにいったら皆も喜んでくれた。鈴木陽二先生(日本代表ヘッドコーチ)もにこにこして「よかったねー」といってくれたんですが、最後に「もう1回(決勝)泳ぐからね」と言われて「まずい」と思った。浮ついた心を読まれている。鈴木先生は「メダルとれるね」とは言わない。「もう1回泳ぐからね」。もう衝撃的で、27年たってもすごく覚えている。


92年バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した岩崎
92年バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した岩崎

決勝でまたも日本新の2分26秒65で優勝。平成最初の金メダリストとなった14歳は「今まで生きてきた中で一番幸せです」と涙ながらに言った。帰国した空港では報道陣が殺到。動く歩道にのると、カメラマンがシャッターを切っては、前方に走っていって、またシャッターを切る。「ああテレビで見ている世界だな」と不思議な気持ちだった。

岩崎さん 当時は現地で日本の情報なんて入ってこない。そんな騒ぎになっているなんて想像できなかった。ついていけなかったのと、競泳のメダルが1人だったのですごく嫌だった。寂しくて。

当時はストーカーという言葉もない時代。いつも人に見られているストレスが募った。日本オリンピック委員会から褒賞金300万円が出たが、当時は税金がかかって2年間、親の扶養家族から外れるという制度のちぐはぐさもあった。「狂騒曲」に競技への意欲を削られる日々だった。

転機は94年だった。米国遠征でサンタクララ国際に出場。休日に遊園地で皆がジェットコースターに乗る中で、遠征団を率いた平井伯昌コーチを誘って2人で電車のアトラクションに乗った。「もう(水泳は)嫌だ」と感情をぶつけると「物事には区切りがある。高校に入ったんだから卒業までやれば」と言われた。

岩崎さん 高校3年がちょうど96年アトランタ五輪。「あと2年、そこまで必ずやる」とはっきり決められた。次の次の五輪とか先のことは想像できない。そのスパンじゃないと、気持ちがつらかった。

岩崎さんは苦難を乗り越えて96年アトランタ五輪に出場して10位。そして00年に現役を引退した。「五輪のすごさとか、狙ってうまくいくものじゃないとかわかった。あらためてですが、五輪を重ねるごとに自分はすごいことをしたんだなと思います」。


金メダルを獲得し、表彰台で涙を見せる岩崎
金メダルを獲得し、表彰台で涙を見せる岩崎

胸に刻まれた出来事があった。92年4月の日本選手権、2位で代表入りした表彰台。36年ベルリン五輪金メダルの前畑秀子さん(享年80)が優勝者へのプレゼンターだった。「この方が『前畑、ガンバレ』の前畑さんなんだ。こうやって歴史がつながっているんだと思った。小学校の時に初めてしっかり読んだ本も(64年東京五輪男子マラソン銅の)円谷幸吉さんの本。今でも競泳では代表合宿で北島康介らが話をする。歴史をつなぐことが、大事だと思う」。

東京五輪では飛び込みの玉井陸斗(12)スケートボード開心那(10)ら10代選手の活躍も期待される。岩崎さんは言う。「バルセロナで代表入りして『14歳ですごいね』とよく言われたけど、本人は目の前のことを一生懸命繰り返しているだけ。特別なことじゃない。反復です。1日1日をつないでいけば、実力通りのことはできると思う」。

かつて「どうしてあんなこと、言ったんだろう」とうとましく思った自身の名言を今、どう感じているだろうか。

岩崎さん 27年たって言葉だけでも覚えていてもらえるのはなかなかないこと。本当に大変だったけど、終わってみれば、私にしかできない経験ができてよかったと思う。


バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎの表彰式
バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎの表彰式

そしてアスリートの名言について、こう締めくくった。

岩崎さん 競泳は終わった直後のインタビューだから出やすい。北島康介の「チョー気持ちいい」もそう。ちょっと時間がたつと格好いいこと言おうかな、と思っちゃう。今は選手にメディアの対応(講座)もあるけど、いい子じゃなくていい。自分で考えて言わなきゃいけない。自分の言葉は選手も大事にしたほうがいい。また新しいものが「令和」の時代に出てくるんじゃないでしょうか。楽しみです。

◆岩崎恭子(いわさき・きょうこ)1978年(昭53)7月21日、静岡県沼津市生まれ。5歳から沼津SCで水泳を始める。沼津五中-日大三島高-日大。沼津五中2年で92年バルセロナ五輪に出場。200メートル平泳ぎで五輪競泳史上最年少の14歳6日で金メダルを獲得した。96年アトランタ五輪は同種目10位。98年に20歳で現役を引退した。米国にコーチ留学も経験している。

■緊張考慮「メダル」言わず

鈴木コーチは、当時のことをよく覚えている。予選は金メダル本命のノールに0秒01差の日本記録。「これはすごい、と誰もが称賛すると思った。でも決勝は次。金メダルを狙えるような位置にもいる。ただ恭子ちゃんは初めての五輪で、しかも14歳。金メダルといったら緊張で硬くなる。だから『もう1回泳ぐからね』だった」。88年ソウル五輪金メダル鈴木大地を育てた名伯楽は、選手本人とチームが沸き立つ中で、冷静に状況を見極めて、ピンポイントで言葉を送った。岩崎さんは「そこで切り替えられた。今、持っている力を出し切ろうという気持ちになれた。鈴木先生は選手を、全体をよく見ているんです」と感謝した。


鈴木陽二コーチ
鈴木陽二コーチ

◆バルセロナ五輪 平成4年の92年7月25日から8月9日まで行われた。日本選手団は男子181人、女子82人ら総勢377人で参加。主将は柔道古賀稔彦、旗手はバレーボール女子中田久美。金メダルは3個で競泳女子の岩崎、柔道男子71キロ級古賀、同78キロ級吉田秀彦。銀メダル8個、銅メダル11個も獲得した。

◆最初と最後の五輪金メダル 1928年(昭3)アムステルダム大会陸上男子3段跳びの織田幹雄が昭和初。大正時代には金がなく、これが日本初。昭和最後は同63年、88年ソウル大会柔道95キロ超級の斉藤仁。大会中に昭和天皇の容体が急変して自粛ムードの中、金メダル0で迎えた柔道最終日の優勝で日本と日本柔道を救った。平成初は同4年の92年バルセロナ大会の岩崎恭子、最後は同28年、16年リオデジャネイロ大会レスリング女子63キロ級の川井梨紗子だった。