かつて、五輪の野球競技はアマチュア選手にとって最高峰の舞台だった。大会ごとにプロが招集される現在の侍ジャパンと異なり、4年の歳月をかけてアマチュア最強の日本代表を結成。プロの道を断ってでも、金メダル獲得に人生をかけた選手がいた。96年アトランタ・オリンピック(五輪)銀メダルの大久保秀昭氏(51=現ENEOS監督)が回顧する。
■決心
プロになるよりも、五輪で世界と戦いたい-。大久保に迷いはなかった。
1995年(平7)9月23日。岡山でのアトランタ五輪アジア予選で日本は韓国に逆転サヨナラ勝ち。優勝で翌年の本戦出場を決めた。だが試合後、三塁の日本生命・仁志敏久が「プロに行きたい」と表明した。プロはまだ五輪に出場できない時代。発言は、日本代表を離れることを意味していた。二塁の松本尚樹(現ロッテ球団本部長)もプロ入りを選んだ。“戦友”が相次いで去ったが、大久保の心は固まっていた。
大久保 もう(ドラフトの)凍結選手になってからはアマチュアでと思ってました。(指名候補に)名前を挙げてもらいましたし、プロは夢でした。だけど、自分でも、そんな選手じゃないだろうと。年齢的にも次の五輪は厳しい。アトランタに懸けた方が現実味がある。そんな心境でした。
26歳で脂が乗っていた。社会人ベストナインの常連となり、アマ球界トップ捕手の座を確立していた。プロか、五輪か。人生の選択を迫られ、五輪を選んだ。夢と現実を冷静に見ていた面もあるが、恩師2人の後押しもあった。
■恩師
1人が慶大の先輩で、後に日本野球連盟(JABA)会長となる山本英一郎。「世界を目指せ。世界で勝負しろ」。重鎮の言葉に「アマで必要とされている。すごく、うれしかった」と凍結選手になる決心がついた。慶大時代の監督、前田祐吉にも「お前はプロよりアマチュアで頑張った方がいい」と背中を押された。
当時の代表は4年計画。五輪を軸にチーム作りが進められた。大久保は銅メダルに終わった92年バルセロナ五輪の後、代表入り。4年間1度も外れることなく、全ての大会や合宿に招集された。「ミスターアマ野球」の大エース、日本生命の杉浦正則とともに、センターラインの中心選手となった。
仁志、松本が去った代表には、入社1年目の日本生命・福留孝介(現阪神)が加わった。新陳代謝を伴いながらも、大久保や杉浦の軸は不動。だからこそのプレッシャーがあった。
大久保 まずは本戦に出ること。内容より出場権獲得。アジア予選で勝ち、これで面目が保てたなと。ホッとしたのが一番でした。
■危機
安心もつかの間、96年の本戦は苦難の連続だった。
初戦のオランダ戦こそ、7回コールド勝ち。大久保も最初の打席で本塁打と好スタートを切った。ところが、次戦でキューバに逆転サヨナラ負け。オーストラリアにも逆転負けし、米国には7回コールドの完敗。3連敗で後がなくなった。
大久保は、結束が足りなかったとみている。
大久保 選手村でも、最初は雰囲気が悪かった。19歳の福留君や大学生は「五輪で目立ってプロへ」という思い。一方、杉浦さんや主将の(NTT東京)中村(大伸)さんのような、プロを諦めてきているベテランがいる。五輪に懸ける思いに、若干の温度差があったのかなと思います。
空中分解しかけたチームを、エースが救った。もう負けられないニカラグア戦は杉浦が先発。ケガもあり万全ではない中、4回途中4失点でつないだ。
大久保 完治はしてなかったけど、魂の投球をしてくれた。それに、みんな奮い立った。杉浦さんは、前回のバルセロナでキューバを倒して金メダルという思いでアマチュアに残られた方。そこに対する思いは、僕らより長く、大きい。若い子たちも感じてくれた。
13-6と快勝し、引き締まった。残る韓国、イタリアにコールド勝ち。4勝3敗の3位で決勝トーナメントへ進出した。
準決勝の相手は、予選で大敗した米国。しかも、五輪前のオープン戦でも大敗ばかりの3連敗。大学生チームだったが、メジャーのドラフト1位候補がごろごろいた。「抑えて、打たないと勝てない」難敵だったが、予選突破で1つになった日本代表は強かった。
控え野手を中心に、相手投手の映像を徹底分析。先発が予想されたベンソンの癖を見つけた。2回、大久保はベンソンのチェンジアップを捉え、右翼へ先制ソロ。2ケタ11得点の先陣を切った。守りでも、オールジャパンの結束があった。
■助言
大久保 予選突破の後です。山中(正竹、現全日本野球協会会長)さんが解説で来られていた。「米国はセオリーどおり、インに速く、外に緩くいっても、なかなか通用しません。迷ってます」と話しました。すると「インコースにこだわらなくていいんじゃないか」とヒントをいただいた。
山中の助言で発想を変えられた。先発はエース杉浦。変化球と制球の良さを生かすべく「外中心にいこう」と切り替えた。
大久保 杉浦さんが見事に応えてくれた。外、外といき、内。緩急も使い、アメリカチームを翻弄(ほんろう)しました。
山中はバルセロナ五輪を率いた。銅メダルで涙をのんだ前指揮官の力添えも受け、11-2の完勝。「10回やって1回か2回、できるような試合」をやり遂げ、メダルを確定させた。
キューバとの決勝は6点ビハインドを追い付く善戦も、最後は力尽きた。それでも、大久保の心は達成感でいっぱいだった。
大久保 五輪はアマチュア野球の集大成。あれ以上のものはありません。4年の間に仲間が代わりもしましたが、同じ国を代表し、野球の本場で体験できた。人生の中で忘れることのない偉大な経験の1つです。
■挑戦
諦めていたプロから声がかかった。その秋のドラフトで近鉄入りしたが、実は「五輪で燃え尽き症候群。あれ以上、何を頑張れば」という状態だったから、プロへの挑戦を決めた。
現役引退後は、プロ、アマ両方で指導者のキャリアを積んだ。1点を守るより点を取りにいくキューバ野球など、五輪の経験が役立った。そんな大久保が考える五輪代表のあり方とは-。
大久保 4年をかけて作り上げ、経験を共有できた。今でも全員が集まり、強いつながりを感じます。短期間のプロによるドリームチームだと、そこまで熱くやり切れるのかな。選ばれた人は全力で戦うし、一流のプロだから注目も集める。だけど、大学生や高校生にも五輪代表に入るチャンスがあっていい。WBCが定着し、プロはWBC、アマチュアは五輪がいいかなと勝手に思っています。
熱く燃えた96年の夏。同じ経験を、これからの選手にも味わって欲しいと願っている。五輪野球には人生を懸ける価値がある。(敬称略)【古川真弥】