その小ネタの数々は「詳しすぎる解説」「マスペディア」などと呼ばれ、時には“増田砲”として業界を騒がす。マラソン解説でおなじみのスポーツジャーナリスト増田明美さん(57)。レースについての説明だけでなく、綿密な取材で得た選手の人柄をにじませるマニアックな情報は、視聴者を楽しませる。「五輪を楽しむための増田明美の世界」を本人に語ってもらった。【取材・構成=上田悠太】

東京五輪テスト大会で取材ノートを手に笑顔を見せる増田明美さん(撮影・菅敏)
東京五輪テスト大会で取材ノートを手に笑顔を見せる増田明美さん(撮影・菅敏)

選手である前に人なんですよね。私が選手のころは、競技性に特化した解説が多かったかなと思うんです。特に長距離は、ここぞの場面で人間力が出るでしょ。だから、この選手はこういう人で、こんな試練を乗り越えてきましたとか、人の背景を伝えたいと思っているんですね。どんな人か分かれば、テレビの前の人も応援したくなるかもしれないですし。もともと私は普段の生活の中でも人に対する興味が強いと思います。すぐに家族構成とか聞いちゃいますもん。それを解説者としてやっているだけと言えば、そうなんですけどね。

92年大阪国際女子マラソンで引退した後、所属していたNECに残る道もありました。だけど、周りはエリートばかり。私は仕事ができないし、少し雰囲気が違うなと思いましたね。最後の大阪国際女子マラソンは15キロで途中棄権しましたが、検査すると脚に7カ所も疲労骨折が見つかって。原因は3年くらい生理が止まっていたのを放っておいたから。ゴールまで走れなかったのは、神様がくれたメッセージだなと感じました。それで「次の世代に失敗を伝えていかなきゃ」と思ったんです。

でも、性格的に指導者は向いていない。書くことは好きだったから、スポーツライターとして伝えていくことにしてね。共同通信で定期的に仕事をもらい、原稿を書き始めたんです。800字くらい書くとなると、やっぱり競技のことだけじゃなく、人間性、その人がどんな人か分かるようにするでしょ。そうなると小ネタを集めるんですよ。

増田明美さんの取材ノート(撮影・菅敏)
増田明美さんの取材ノート(撮影・菅敏)

引退した年の10月からラジオでパーソナリティーの仕事をしたのも影響しているかも。「花の東京応援団」という情報バラエティーの番組。だから、メディアに出た最初から優等生キャラでいこうというよりも、自然と人を楽しませたいと思っていたかな。

それと、やっぱり、大きかったのは永六輔さんにお会いしたこと。仕事をするからにはラジオをたくさん聴いて勉強しました。永さんの番組がすごく楽しくて「どうしてラジオなのに匂いが感じられるのですか?」とお尋ねしたら、「僕は会いたいと思う人がいたら、遠い場所でも会いに行って、体で感じたことを話しているだけですよ」って。それを聞いて、天才的な永さんでも、自分の足で現場に行って、五感を大切にしていらっしゃるんだなって思いました。永さんの姿勢は、私の取材の原点です。

最初の国際大会の解説は、浅利純子さんが金メダルを獲得した93年シュツットガルトの世界選手権でした。永さんにお会いした後だったから、すごく取材しましたよ。ダイハツの寮に行くと、浅利さんは、休憩中にヘッドホンを着けているんです。「何やっているんだろう?」と思ったら、休んでいる時も、リラックス効果のあるアルファ波が脳に流れているかを調べていたんです。他にも当時としては、珍しいイメージトレーニング、医科学の知見も取り入れていたの。そういう細かい情報を解説で話したら、大島渚さんと、永六輔さんが「浅利純子さん金メダル。増田明美さんの解説も金メダル」とすごく褒めてくれたんです。それは本当にうれしかったな。

選手のネタを集めるのに一番いいのは、家族と仲良くなることですね。愛情を注ぎ込んできた人たちですから。また聞いた話でも、傷つけること、自分が言われて嫌なことは言わないようにしてます。

もちろん、失敗したなと思う時もたくさんありますよ。だいたい結婚、恋愛の話題ですけど(笑い)。例えば、13年の東京マラソン。それは09年世界選手権銀メダル尾崎好美さんの引退レースで、ラストランって寂しいから、明るい話題で終わった方がいいなって思ったの。尾崎さんには婚約者がいて、しかもNASAで仕事をしている人。それをテレビで言ったら、レース後に婚約のことばかりが注目されてしまい、山下佐知子監督から叱られました。その後、会見場に行くと、ある記者の方に深々と頭を下げられて、いただいた名刺を見ると、東スポさんでした。他にも木崎良子さん、大石港与さんの恋愛、結婚話もまだ言っちゃあダメだったみたいで…。みんな許してくれたけど、最近、恋の話にはブレーキかけています。こういう時代ですし、気を付けないとね。

競技をしっかり見たい人からしたら、私の解説がうっとうしく聞こえる人もいると思います。事務所にメールが届くこともありますから。ただ、より多くの人にレースを楽しく見てもらうために、競技を伝えながら、人の部分を伝えるという軸は、これからもぶれないでやっていきたいと思います。


<取材後記>増田さんのノートには選手の特徴、コメントなどがぎっしり書いてある。いつも持ち歩き、聞いたこと、感じたことを記す。スタッフが集めた情報を頼りにテレビやラジオで話す解説者の人も少なくない中、増田さんはまず自分の足で稼ぐ。その姿はまさに記者さながらだ。増田さんのお気に入りは筆ペン。「これが一番走るんですよ」と笑う。

「普段の生活の中でも人に対する興味が強いと思います」。まさしく、その言葉にすべてが詰まる。ノートには大阪芸術大で教えているゼミの子の特徴や経歴なども。そして、この取材が終わった後にも、「上田さんは昔はどんなスポーツをしていたの?」「出身は?」などと逆取材を受けた。人から伝えられた情報でなく、自分で聞いて、確かめたことだから、話す言葉にも温かみがあるのだろう。東京オリンピック(五輪)では、視聴者を楽しませる選手のどんな小ネタが出るか楽しみだ。


82年2月、マラソン初挑戦の千葉マラソンでいきなり日本最高の2時間36分34秒を記録する増田明美選手
82年2月、マラソン初挑戦の千葉マラソンでいきなり日本最高の2時間36分34秒を記録する増田明美選手

◆増田明美(ますだ・あけみ)1964年(昭39)1月1日、千葉県生まれ。成田高在学中、長距離種目で次々と日本記録を更新。82年にはマラソン初挑戦の千葉マラソンで2時間36分34秒の日本新記録を樹立した。84年ロサンゼルス五輪はマラソンで途中棄権。現在は日本パラ陸連会長なども務める。最近は女子マラソン東京五輪代表鈴木亜由子の祖母にもらった黒ニンニクを食べ、体調がすこぶるいい。