95年のアトランタ・オリンピック(五輪)予選まで4年間、全日本で二塁手としてプレーさせていただきました。高校(市和歌山商)を卒業し、住友金属に入社した当時は、五輪候補になれるなんて思いもしませんでした。

純粋に社会人野球にあこがれていました。高3の時、住友金属と大阪ガスのオープン戦をたまたま見て、何というか、感動してしまって。20代後半や30歳くらいの選手が一生懸命野球をやっている。その姿に強くあこがれました。当時はアマチュア選手が五輪に出られたので、目指した選手は多いはず。それがあれだけの一生懸命さに伝わったのかなとも感じます。

私も22歳で全日本に選んでいただき、アトランタ五輪に出たい気持ちもありました。予選も全部「2番二塁」で出ることができました。当時はリナレスとかキンデランとか、キューバの全盛期でした。走攻守、全てにスピードとパワーがある。世界の野球はすごい。日本では見たことのない野球でした。世界一になりたい、金メダルを取りたい、キューバに勝ちたい。当時はそんな感じでした。

五輪への意識が強くなったのは、プロ入りを諦めかけていたのもあります。でも、アトランタ五輪出場が決まった95年に「ドラフトにかかるかもしれない」という話になって。25歳、ラストチャンスですよね。最後のプロ入りにかけました。今でも覚えています。プロ1年目、福岡のビジター遠征中にキューバとの決勝がありました。松中が本塁打を打ちましたね。やっぱり五輪はすごいなって。でも後悔はしていません。

今マリーンズで一緒にやっている井口監督とは、二遊間を組みました。当時はまだ大学生。主力ほとんどが社会人の選手で、レギュラーは監督だけだったと思います。それだけ飛び抜けていました。今岡2軍監督も全日本で一緒にプレーしました。いつも食事しながら話すんですよ。この3人は、本当に縁だなと。またこうして勝負の世界で一緒にやれるというのは、私にとってはとても幸せです。

東京五輪にも、マリーンズから代表選手が出てほしいです。開催が1年延びたことによって、特にマリーンズは今、イキのいい若い選手が多い。稲葉監督に選んでもらえるようになればと期待しています。五輪って特別じゃないですか。メダルを取ることがどれだけ大変か、どれだけ価値があるか。日の丸を背負ってプレーするほど、緊張することはありません。本当に価値のあるものです。(305人目)