大迫傑(28=ナイキ)が2時間5分29秒で、自身が持つ日本記録を21秒更新した。順位は日本人トップの全体4位で、東京オリンピック(五輪)代表に大きく前進した。

昨年9月のマラソン・グランドチャンピオンシップ(MGC)は3位。代表内定を逃した悔しさを糧に、ケニア合宿など新しい経験を模索した。その成果を日本新記録で示し、1億円もゲットした。8日のびわ湖毎日で、日本新記録を更新されなければ、代表に決定する。新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、今年は一般ランナー抜きで実施された。

   ◇   ◇   ◇

クールを貫いていた孤高の男が泣いた。ゴール直後。大迫は「3番になってから非常に苦しい戦いだった…」。そう言い、顔を右腕にうずめた。前を向くと、頬を大粒の涙が伝わる。負けるなど想像してなかったMGCは3位。自信を砕かれ、己の甘さ、弱さを感じた。苦悩した半年間の感情が一気に押し寄せてきた。

楽な展開ではなかった。中間点過ぎ。井上を含む先頭集団の背中は遠のいたが、そこからが進化した姿だった。単独走も気持ちは切れない。32キロで集団に追いつき、すぐ井上の顔色を確認。苦しいと察し、一気に勝負を懸け、集団を抜け出した。残り5キロは腹痛の兆候が出て、右あばらを何度も押さえながらペースは不変。ゴール直前に日本新、日本人トップを確信し、ガッツポーズを繰り返した。

MGCはなぜ勝てなかったか-。自問自答し、泥臭さを追求。過去にない挑戦をした。大会前に標高2400メートルのケニアで2カ月半合宿。貧しくても、夢を追う多くのランナーがいた。練習は大きく変化していないというが「1人で耐えることを学んできた」。つい先ほどまで生きていた動物が殺され、食べ物となる。そんな分かっていても、目を背けたくなる現実も見た。練習以外も未知の経験を重ね、たくましくなった。

2度目の日本新-。そんな「傑物」は、きれい事だけでは生まれないのかもしれない。特にマラソンは孤独な己との闘いだ。佐久長聖高3年時、両角監督(現東海大)から告げられた。

「本当のトップに上り詰めたいのであれば、あまり周りのことを気にしてはなれないよ」

「仲間の大切さ」「協調性」も指導を受けたが、信念を突き通す大切さも教えられた。早大4年時には主将ながら、最後の箱根駅伝を控える11月中旬にチームを離れ、米国で合宿をした。卒業後は破格の待遇で日清食品グループへ。契約は1年更新だったとはいえ、1年で辞め、プロになった。道の選び方は常にシンプルかつシビア。どうしたら強くなれるか-。その決断は反対、批判も付き物だったが、結果で黙らせ続ける。それを周囲は「異端」と呼んでも、自身にとっては「普通」の選択だった。

五輪は大きく前進した。自国開催の98年長野五輪を見て、保育園の卒園式では「スキージャンプで金メダルを取ります」と五輪の制覇を宣言した。その時、母直恵さんは初めて息子が「オリンピック」を意識した言葉を聞いた。そのスポーツで感動を与えられた少年は今、夢を与える立場になった。東京五輪へ「単純に速くなっていく。それを追求していくだけ。自分を信じて進んでいきたい」。日本新の満足はない。まだまだ強くなる。【上田悠太】

◆大迫傑(おおさこ・すぐる)1991年(平3)5月23日、東京都町田市生まれ。東京・金井中-長野・佐久長聖高-早大-日清食品グループを経て、ナイキ・オレゴンプロジェクトへ。16年リオ五輪は5000メートル全体28位、1万メートル17位。3000メートルと5000メートルの日本記録も持つ。170センチ、52キロ

▽2時間6分54秒で9位の上門 タイムを聞き、驚いた。日本のトップランナーが集うMGCに出場したことが成長につながった。もっと上を目指す。

▽2時間7分5秒で10位の定方 良い状態だったので、なんとか開催してほしいと祈るような気持ちだった。マラソンでやっと勝負ができるタイムになった。

▽2時間7分27秒で13位の下田 35キロまでは100点の走りだった。最後は足が残っていなかった。4年後を見据えて、力をつけたい。

▽2時間7分39で15位の一色 8分台で走れればと思っていたが、目標タイムを大きく上回れた。大学を卒業して3年でようやく結果が出た。