日本人として48年ぶりのオリンピックだった。12年ロンドン大会で初出場。結果は7842点で20位。前年の日本選手権で日本人初となる8000点超えをマークした自身の力は、出し切れなかった。

4年後、2度目の舞台に立つ権利を得る。16年リオデジャネイロ大会。右代はさらにパワーアップしていた。14年に8308点を記録。今も破られていない日本記録だ。日本選手団の旗手を務め、臨んだ本番は7952点。前回と同じ20位に終わった。

右代には反骨心をバネにできる強さがある。5大会連続5度目の出場だった19年世界選手権は、大会前のドタバタ劇をはね返し、過去最高16位。日本陸連の選考の不備で代表内定が一時は取り消されるアクシデントがあったが、自己最高順位と意地を見せた。

札幌第一高3年で8種競技に転向してから、追求してきた「キングオブアスリート」の道。アジア大会2度の金メダリストとして、自国での三度目の正直にかける。