ドジャースにまつわる話 オマリー氏の言葉、野茂と松井秀喜のアーチ競演/連載22

大谷翔平選手(29)に続き、山本由伸投手(25)もドジャース入りが決まった。ドジャースは日本球界と関係が深く、1960年代以降、巨人が何度か米国フロリダ・ベロビーチのドジャータウンでキャンプをしたり、1995年には野茂英雄投手が入団し、日本人大リーガーの先駆者になるなど日本との関わりは深い。今後、さらに日本でブームになるであろうドジャースの思い出を振り返った。

MLB

ビールとドジャードッグ

ロサンゼルス・ドジャースに関する思い出は数多い。

まず、私が初めて現地で大リーグ観戦をしたのは、ドジャースタジアムだった。仕事を抜きに、ファンとしてスタンド観戦した唯一の試合でもある。

野茂英雄投手がメジャー3年目を迎える1997年(平9)8月、休暇を取ってロサンゼルスへ行った。野茂のローテーションを計算し、現地時間8月28日、この年から始まったインターリーグ(交流試合)のオークランド・アスレチックス戦を見た。

1997年4月2日、ドジャースタジアムで投球する野茂(写真は多重露光)

1997年4月2日、ドジャースタジアムで投球する野茂(写真は多重露光)

バックネットから少しばかり三塁側の上段で、グラウンドからはかなり離れた席だった。野球をじっくりと見るならテレビの方がいいだろうが、雰囲気は何ものにも変えられない。

ビールを飲みながらドジャードッグを食べ、ドジャースが得点を重ねた際には、スタンドを回ってきたウエーブにも参加した。

以後は常に取材…仕事として球場を訪れているので、当たり前だが、ビールを飲みながら大リーグを観戦したのは、この1試合しかない(ただし、仕事でもドジャードッグは必ず食べている)。

ドジャースタジアム名物「ドジャードッグ」

ドジャースタジアム名物「ドジャードッグ」

この試合で、野茂は13勝目を挙げただけでなく、ドワイド・グッデン以来となる、デビュー年から3年連続の200奪三振に達した。

野茂の好投よりも覚えているのはマイク・ピアザ捕手が2つも盗塁を決めたことだった。この時点で190センチ、98キロのピアザが盗塁するイメージはなく、「大リーグは彼のような大型選手でも走るんだな」と印象に残った。

ただ、ピアザはこの年5盗塁で、シーズンのキャリアハイ。現役16年間で通算17盗塁だから、貴重な試合を目撃したことになる。

1997年、ピアザの打撃フォーム

1997年、ピアザの打撃フォーム

森祗晶氏とオマリー氏の対談

ドジャースタジアムでは、もう1度、スタンドから観戦している。これは仕事だが、現地時間2004年6月19日、西武黄金時代の監督だった森祗晶氏が、当時住んでいたハワイから大リーグ観戦に訪れたので、チケットを買って一緒に観戦したのだった。

この日はドジャース対ヤンキースで、ペナントレースで両軍が対戦するのは史上初めてとあって、注目されていた。初めて野茂対松井が実現した試合でもあった。

1回に松井が、野茂のフォークボールをすくうように捉えてライトスタンドへ3ランを放った。

すると、5回には野茂がホームランをお返しした。レフトを守る松井の頭上を越えて、森氏と私が座っていた席の近くまで飛んできた。

日本人選手が同じ試合でそろってホームランを打つという、貴重な試合を目撃できた。

2004年6月19日、野茂は、松井(後方)から3ランを浴びる

2004年6月19日、野茂は、松井(後方)から3ランを浴びる

この前日、森氏とともにドジャースの元オーナー、ピーター・オマリー氏の元を訪ねていた。森氏が選手時代からオマリー氏と親交があることから、インタビューする機会に恵まれた。場所はロサンゼルスのダウンタウンにあるオマリー氏のオフィスだった。

日本のファンは、野茂と松井の対決を待ちわびている。そう伝えると、オマリー氏は笑顔で答えた。

「さまざまな国の人が住むロサンゼルスという街を代表するようなドジャースにしたかったんです。かつてはローテーション投手が、みんな違う国籍だった時期もあるんですよ」

私が初観戦した1997年がそうだった。14勝を挙げた野茂が日本、同じく14勝の朴賛浩が韓国、10勝のイスマエル・バルデスがメキシコ、同じく10勝のラモン・マルティネスがドミニカ共和国の出身だった。

ドジャースは黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンと契約したことでも知られる。ちょうどこの年、ロビンソンがデビューした4月15日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」に定められたばかりだった。

「日本はもちろん、さまざまな国の選手たちが活躍する。それこそ私たちが目指してきたドジャースなのです」

2004年6月18日、握手を交わすオマリー氏(右)と森氏

2004年6月18日、握手を交わすオマリー氏(右)と森氏

ドジャースを手放した理由

オマリー氏のインタビューで記憶に残るのは、オフィスの壁に飾られた1枚の写真である。

インタビューの6日前、日本では近鉄とオリックスの球団統合が、日本経済新聞のスクープによって表面化し、いわゆる球界再編騒動が幕を開けたばかりだった。

1997年にドジャースを手放した理由を聞くと、オマリー氏は立ち上がって、写真の方へ歩いた。

「ほら、この写真を見てください」

はるか昔のドジャースタジアムを写したモノクロの写真が、額に入れて飾られていた。

「ニューヨークのブルックリンからロサンゼルスに移り、ドジャースタジアムが完成した直後の写真です。今では信じられないほど球場の広告が少ないでしょう」

確かにガソリンスタンド「76」のマークが目に入る程度で、近年の球場を見慣れている私には、殺風景にさえ感じた。

「球団経営に大金がかかるようになり、資金調達のために広告が増えていきました。スタンド、フェンス、ユニホーム…あらゆるところに広告を入れるようになり、キリがなくなりました。どこかで線を引くべきだと思い、私には『ここまでだ』という線まできたのです。だから愛するドジャースを手放しました」

2023年のドジャースタジアム

2023年のドジャースタジアム

「線を引く」という言葉を聞いて、私の頭に浮かんだのはスパイダーマンの模様だった。

大リーグはこの年、映画「スパイダーマン2」とタイアップして、一、二、三塁の各ベースに映画のロゴを貼り付ける企画を発表していた。

私はこの案に違和感を覚え、野球…ベースボールを冒瀆(ぼうとく)しているようにも感じた。しかし、よく考えると、違和感の正体を説明できなかった。

模様が描かれていても、ベースの機能に何ら違いはなく、野球そのものに変化が生じるわけではない。フェンスやユニホームに広告が描かれているのと変わらない。

だが、オマリー氏の言葉を聞いて、ここが私の「線引き」なのだと思った。フェンスやユニホームはともかく、ダイヤモンド内にあるベースまで売り出すのは違う。私なりの「ここまでだ」という線が引かれていたわけだ。

結局、スパイダーマン模様のベースは実現しなかった。大リーグ関係者からも「不謹慎だ」などという意見が出て、ヤンキースが「1日だけ、打撃練習の時だけ協力する」という声明を出し、試合での実施を拒否した。こうした反応を受けて、大リーグ機構も企画を撤回した。

オマリー氏の言葉は、強く印象に残った。球場内の広告だけの問題ではない。ものごとは「白か黒か」という二者択一だけではなく、さまざまな状況の中で「ここまで」「これ以上は…」という線を引く判断が必要になる。あらゆる仕事の中で、そして日常生活の中で線引きは欠かせない。

大谷、山本の加入が決まり、ドジャースについて考えていたら、さまざまなことを思い出した。

オマリー氏の取材をメモした手帳

オマリー氏の取材をメモした手帳

松井のMVPを消した男

最後に、2人の指揮官となるデーブ・ロバーツ監督について書いておきたい。

沖縄で生まれた彼は、インディアンス(現ガーディアンズ)、ドジャースを経て、2004年のシーズン途中にレッドソックスへ移籍した。ここで私は取材する機会に恵まれた。

ヤンキースとレッドソックスのリーグチャンピオンシリーズは、ヤンキースがいきなり3連勝して王手をかけた。

松井は第3戦まで15打数9安打10打点、2本塁打と活躍し、第4戦でも2安打を放った。

ヤンキースが最少1点をリードして最終回を迎えると、松井のシリーズMVPが内定し、MLB広報と報道陣が取材の段取りを打ち合わせていた。先に米メディアがインタビューを行い、その後に別室で日本メディア向けの会見を行う。そこまで決まっていたのだが、ロバーツがすべてをひっくり返した。

2004年、ヤンキースとのア・リーグ優勝決定戦第5戦、8回裏に同点のホームを踏むロバーツ

2004年、ヤンキースとのア・リーグ優勝決定戦第5戦、8回裏に同点のホームを踏むロバーツ

9回裏、レッドソックスの先頭ケビン・ミラーが四球で出塁すると、この年38盗塁のロバーツが代走に送られた。盗塁のための起用は一目瞭然だった。

当然ながらヤンキースのクローザー、マリアノ・リベラが執拗(しつよう)にけん制を繰り返すが、その中でロバーツは盗塁を決め、ビル・ミューラーの同点タイムリーを呼んだ。

試合は延長戦の末、デービット・オルティスのサヨナラ弾でレッドソックスが勝利を収め、松井のMVPは幻と消えた。

ここからレッドソックスは4連勝を決め、ワールドシリーズでも田口壮選手が所属するカージナルスを下し、86年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。

ベーブ・ルースを放出してからレッドソックスが優勝できなくなった、いわゆる「バンビーノ(ルースの愛称)の呪い」を解いたのは、間違いなくロバーツの盗塁がきっかけだった。

ルースと比較されることも多い大谷を率いることになったのも、何か縁があるように感じる。

2024年のドジャースは、ますます盛り上がるだろう。私もロス旅行の計画を立てたいと思う。

2023年12月14日、ドジャース入団会見で報道陣の質問に笑顔で答える大谷

2023年12月14日、ドジャース入団会見で報道陣の質問に笑顔で答える大谷

◆飯島智則(いいじま・とものり)1969年(昭44)生まれ。横浜出身。93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。

編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。