農業、時給1000円のバイトから起業まで…引退後も輝くアスリート 

選手生活を退いた後も、輝き続けるアスリートがいる。その姿からスポーツ界が学ぶべきところは多い。

3月2日、都内で開催された「Athlete Career Challenge カンファレンス2024 競技を通じて培われるアスリート人材のチカラを社会へ」を取材した。

第一線で活躍した選手であっても、引退後に「何をしたらいいのか分からない」と悩むケースは多く、競技団体や企業が対策を講じている。その取り組みや課題が多数紹介された。

元アスリートも登壇し、引退後の生活を披露した。

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運転手が師匠に

元ソフトボール選手の丹野朝香(さやか)さん(38)は、いま農業に就いている。

現役時代から、そういうビジョンを持っていたわけではない。湘南ベルマーレ、ペヤング女子ソフトボールチームでプレーした後、故郷の山形へ戻った。

農業について話す丹野さん

農業について話す丹野さん

「4年間、実業団を経験して、戦力外通告を受けて引退しました。地元に戻ってバイトをしながら、高校(山形北高)の部活を指導していました」

そこで出会い…いや、再会があった。高校時代から、遠征時のバスを運転してくれていた方だった。

「高校時代はバスの運転手さんとしか正体は分かりませんでしたが、実は町一番の米農家さんでした。将来について考えていた私に『農業をやってみないか?』と声をかけてくれ、私はとっさに『やる』と答えました。この出会いがターニングポイントとなり、その方は私にとって『運転手さん』から『農業の師匠』に変わりました」

農業の経験も、仕事として考えたこともなかった。

「農業経験はまったくなく、選択肢としてもありませんでした。でも、振り返ってみれば山形は農業大国で、農家の友達もいました。大学から県外に住んで、あらためて山形産の食べ物や環境が素晴らしいと感じていたので、自らの手で作物をつくり、山形県の魅力を伝えるのに最適な職業だと思いました」

最初は青年就農給付金を利用し、米農家で研修をした。2年後、研修先の農家からバックアップを受けて独立し、「朝の香ファーム」の経営を始めた。今年で12年目になる。

「地域でブランド化している尾花沢すいかを中心に、里芋や白菜などを作っています」

収穫したスイカを手にする丹野さん(本人提供)

収穫したスイカを手にする丹野さん(本人提供)

アスリート時代の経験は、農業に役立っているのか? その問いに丹野さんは答えた。

「アスリート時代は勝負に勝つ、優勝するという目標を設定して、それに向けてどう練習していくか考えて臨んでいました。今は収穫という目標に向けて、いつ種をまいてとか…そういう目標設定や実行は生きているなって感じています」

もう1つある。

「何と言っても肉体、体力ですね。現役時代よりも外にいる時間は長いですけど、畑で走り込みもしないですし、つらいトレーニングもしないので(笑)。周りの農家の方に『つらいでしょう』と声をかけてもらいますが、さわやかに『大丈夫です』って答えられます」

おまけに、もう1つ。

「練習後のグラウンド整備でレーキがけをしていましたが、今もレーキを使う作業が結構あるんです。それも生きていますね」

そう言うと、場内は笑いにつつまれた。

反対に、大変だったことは?

「どのキャリアに進んでも同じかもしれませんが、専門知識や専門技術がなかったことですね。それはいまだに勉強中です」

人のつながりも感じている。

「過去にチームメートだった先輩や後輩が泊まりがけで農作業の体験に来てくれたり、ソフトボールのつながりで全国にお客様がいて、お世話になった方々やファンの方々とつながっていられることをありがたく思っています」

考えもしなかった農業で、アスリート時代と同じように生きがいを持って暮らしている。

「尾花沢市は豪雪地帯で、尾花沢すいかは朝晩の寒暖の差で味がよくなる、全国でもトップクラスのブランドです。ぜひよろしくお願いします」

畑での丹野さん(本人提供)

畑での丹野さん(本人提供)

プライド、周囲の目が…

元Jリーガーの杉原龍馬さん(51)は、わずか2年のプロ生活だった。1995年(平7)にGKとして横浜フリューゲルスに入団するも、2シーズンで戦力外通告を受けた。公式戦には1度も出場できなかった。

「移籍を希望しましたが、かなわず引退しました。そこから金融の世界に入るんですけど、なぜかといえば、他に選択肢がなかったんです」

知人を頼りに仕事を探し、候補に挙がったのは、❶飲食店の店舗スタッフ❷証券会社のアシスタント❸靴屋の店舗スタッフ❹ワイン卸業者の営業スタッフだった。

「すべてアルバイトでしたが、証券会社だけは頑張れば正社員になれるという話だったので、食べていくためには正社員にならなきゃと思って、予備知識もほぼゼロの状態で入りました」

最初は時給1000円のアルバイトで、社員の指示でコピーやファックスをしたり、書類を運んでいた。

当時を振り返ると、3つの悩みがあったという。

引退後の生活を語る杉原さん

引退後の生活を語る杉原さん

「1つはプライド。4年制の大学を卒業してプロとしても生活してきた自分が、時給制で、年下の新卒社員のアシスタントをしなければいけないってことを受け入れるには時間がかかりました」

「次に周囲の目。元Jリーガーだから、失敗したらバカだと思われてしまうと、過剰に自分にプレッシャーをかけていました。ただ、この年になって思い返すと、多分に自分の思い込み。会社の方々には温かく受け入れてもらっていたのですけど、当時の自分にとっては非常に大きな悩みでした」

「3つめが短期的な成功習慣です。アスリートに共通した部分だと思うのですが、目の前の練習や試合で結果を出して評価してもらうという習慣が身についていたので、就職した後も、とにかく早く成功して認めてもらいたいと、長期的な視野に立って物事を見る能力はなかったように記憶しています」

晴れて正社員になり、その後は米国留学をしてMBA(経営学修士)を取得し、転職も経験した。

「転職の多い外資系の金融だったので、私も2度クビになっています。外資系では結構、頻繁にあるので嫌がる人もいる。でも、私はプロを経験しているので、パフォーマンスが悪ければクビになるかなと、意外とすっと受け入れられました」

杉原さんの選手時代を記したスライド

杉原さんの選手時代を記したスライド

昨年、国家資格であるキャリアコンサルタントを取得して、アスリート向けのキャリアコンサルタント会社「リトルアスリート株式会社」を設立し、代表を務めている。

「引退後の就職で苦労した経験があるので、同じような状況になる人がいれば、ぜひ支援したいと思いました。あと、アメリカでは元アスリートに対して評価が高く、意志の強さや忍耐など自分を証明してきた人材だから、ビジネスでも成功しない理由がないという考え方をする方が多かった。そういう考え方を日本の社会でも広めていきたいと思っています」

輝く時代の前と後

マラソンで活躍した山田貴子さん(46=旧姓・小鳥田)も登壇し、引退後に保健体育の教員になった経緯などを話した。

引退後、高校陸上部のコーチをしていたところ、教員採用試験にアスリート枠が採用されて道が開けたという。2016年(平28)から広島市立沼田高、そして23年から広島工で教員を務めている。

教員への道乗りを語る山田さん

教員への道乗りを語る山田さん

今回のカンファレンスは、スポーツ庁委託事業の一環として創設されたスポーツキャリアサポートコンソーシアム(SCSC)が開催し、各競技団体の取り組み、プロチームや企業スポーツを持つ企業の取り組み、キャリア開発の実例などが紹介された。

団体や企業によって活動に差はあるが、総じてセミナーや座談会、面談などを実施し、「引退後の人生について考える機会をつくる」という取り組みが主である。スポーツに取り組む中で養われる「実行力」「コミュニケーション力」などは、そのまま社会で生きるのではないか。選手に、そういう意識が芽生えるだけで変わってくるという。

選手、指導者とも技術向上や試合の結果に目を奪われがちで、「強化や普及のように必要性を理解されにくい」という壁がある一方、キャリア開発で自己分析や目標設定などをすることで「競技力向上にもつながっている」という事例も紹介された。

つまり、引退後の準備をしているわけではなく、選手時代も引退後も通じる「人生の勉強」といっていいだろう。

近年は、引退後の生活を「セカンドキャリア」ではなく、「デュアルキャリア」と呼ぶ。

前者は「ファースト(第1の)」「セカンド(第2の)」と、選手時代と引退後を分けているが、後者の「デュアル(二重の)」は、選手時代と引退後の生活は共にある…同じ人生の一部であるという考え方である。

我々スポーツメディアは、主に選手として輝く時代を追いかける。しかし、アスリートの人生は、その「前」も「後」もある。その全てがアスリート、そしてスポーツの姿といえるだろう。

アスリートのキャリア開発。スポーツ界が発展していくために欠かせない、重要な課題である。

◆飯島智則(いいじま・とものり)1969年(昭44)生まれ。横浜出身。93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。

編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。