星野仙一新監督が最初にカミナリを落とした相手は?「哲のカーテン」を巡る攻防も回顧

今年は巨人に阿部慎之助監督、楽天に今江敏晃監督が誕生しました。阿部監督が44歳、今江監督が40歳と若い監督が、どんなチームを作り上げ、どんな野球をするか楽しみです。当連載「日刊スポーツ28000号の旅 ~新聞78年分全部読んでみた~」は、日刊スポーツが創刊した1946年(昭21)3月6日から発行してきた約2万8000号もの新聞の中から、懐かしい時代、できごとを振り返りながら、あらためてスポーツの素晴らしさやスターの魅力を見つけ出しています。

今回は過去の「新監督」にスポットを当ててみます。40歳の若さで初のキャンプを迎えた中日星野仙一監督は闘争心たっぷりで、今なお参考になるところも多々あります。(内容は当時の報道に基づいています。紙面は東京本社最終版)

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新監督と3冠王の距離感

さまざまな新監督のキャンプインを振り返って、中日星野仙一監督の若々しく、さっそうとした雰囲気に目が止まった。

1987年(昭62)、40歳の若さで監督として初のキャンプを迎えた。ロッテから3冠王の落合博満選手を獲得し、抜群の注目度を誇っていた。

1986年10月、中日新監督に就任した星野仙一氏(中央)

1986年10月、中日新監督に就任した星野仙一氏(中央)

キャンプ前日のコメントが目を引く。1月31日、落合が沖縄・那覇空港に到着したとき、星野監督も空港にいた。翌2月1日の紙面を振り返る。

星野監督らしい落合歓迎法だった。那覇空港に落合が到着した時、同監督も迎えに出ていた。だが、相手は落合ではなかった。米大リーグ・ドジャースから臨時コーチとして招へいしたB・ハインズ打撃コーチとアイク生原氏を迎えに来たのだ。「オレはヒラ社員を出迎えたりせんよ」とニヤリと笑ったのが、監督として落合と一日距離置いて接する意思表示でもあった。

実際には実績ある落合に最大限の配慮をしていただろうが、表立っては威厳を保っていたようだ。

1987年2月1日付紙面

1987年2月1日付紙面

キャンプイン時の訓示が、翌2日付の紙面に載っている。

【星野監督訓示】厳しく、明るく、楽しく。これは今までと一緒だ。このキャンプが、ペナントレースを決めるんだ。いよいよ戦闘開始。みんな自分に厳しくやろう! 無理はするな。しかし、甘えは許さん。もう一つ、自分に挑戦しようじゃないか。

勢いある言葉だが、練習での動きは静かだったようだ。

いきなり激しい口調で戦闘開始を宣言した星野監督だったが、石川での実際の動きはいたって静かだった。

ランニング、柔軟体操、キャッチボール……後方に一歩退き、腕を前に組んだまま、ただ無言で見守った。「すべてをコーチ連中に任せている。オレがやることは何もないよ」と、昨年11月の浜松秋季キャンプからの方針をいま一度復唱した。

(中略)

何事にも先頭に立って闘ってきた燃える男が、監督に就任と同時に政策を変えた。練習日程の作成から実行まで、すべてをコーチ陣に一任。監督としては最終的な判断を下すだけで、実際の練習では決して表面に出ようとしない。それが昨年の秋季キャンプから一貫した方針だ。

静かな星野監督とは意外だが…それは選手たちも同じだったようだ。「静の監督かえって怖い」という見出しの記事が付いている。

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編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。