ダン・カーターが叫んだ「ウエカドはどこだ!」平尾に信頼され神戸製鋼に愛された男

平尾誠二さんが生前、心を許したラグビー用品店主がいました。強いチームには、信頼できる裏方がいます。平尾さんとともに天国から神戸製鋼を見守っています。(2021年5月24日掲載 所属、年齢など当時)

ラグビー

14年サントリー戦 見守る上門俊男さん(左)と平尾誠二さん(神戸製鋼提供)

14年サントリー戦 見守る上門俊男さん(左)と平尾誠二さん(神戸製鋼提供)

「平尾は死なん、平尾は死なん」親兄弟の間柄

今から5年前の春だった。「ミスターラグビー」と称された元日本代表監督の平尾誠二さんは、胆管細胞がんを患い、闘病生活を送っていた。

ごく限られた数人にしか、病状は伝えていなかった。昔からの仲間、恩師でさえ、知らされていなかった。当時は神戸製鋼のゼネラルマネジャー(GM)を務め、カリスマ性は際立った。神戸の繁華街で酒を飲んでも店を出ると、顔を知られないよう、口元を手で覆うこともあった。素顔を必要以上には明かさず、心をさらけ出す相手もそう多くはなかった。

古くから神戸製鋼にラグビー用品を納入してきた上門俊男さんは、レストランで食事を共にした。平尾さんより、16歳年上。年の差はあっても、気心が知れた仲だった。

その日、兵庫・尼崎市の自宅に戻ると、上門さんは妻にこう漏らした。

「サラダを一口しか食べへんかったわ…」

体調が思わしくないことを、すぐに察した。ラグビーに対する情熱、理論…。まだ神戸製鋼に入る前から平尾さんとは交流があり、誰よりも強いラグビーに対する思いを知り、私生活で相談を受けることもあった。だからこそ目に映った、痩せてしまった姿を、受け止めたくはなかった。現実から目を背けるために、あえて、自らに言い聞かせるように言った。

「多分、腹が減ってなかったんやろうな」

その日から顔を合わせる機会は、徐々に減っていった。

「平尾は死なん」-

そう言うことで、自らの心を落ち着かせていたのかもしれない。まるで呪文を唱えるように、口にしていた。治療にはノーベル医学生理学賞を受賞した、京大の山中伸弥教授があたっていることも知っていた。

「平尾のことは山中(伸弥)先生が治してくれる」

だが、現実は無情だった。

半年後の2016年10月20日。平尾さんは静かに息を引き取った。53歳だった。

上門さんは1週間、部屋に引きこもって泣き続けた。「平尾は死なん、平尾は死なん」…。何度も、何度も。そう思い続けてきた。

精神的なショックは想像以上に大きかった。親兄弟と同じような関係だった。

人生救った「おっさん」

平尾さんがまだ小学生だった頃、1970年代の神戸製鋼は関西社会人Bリーグ(2部)を戦っていた。Aリーグは日本代表WTB坂田好弘氏らを擁した近鉄の黄金期。神戸製鋼は1975年度に入れ替え戦で京都市役所を破り、Aリーグ初昇格を決めた。

その頃、上門さんは大阪商業大を卒業し、ラグビー用品の販売を始めていた。店を持たず、車で各チームを回る日々。情熱で突き進む20代の若者を受け入れてくれたのが、地元の強豪である報徳学園高校、そして全国制覇へと少しずつ歩みを進めていた神戸製鋼だった。

1985年、ラグビー界の注目を一身に集めるスターが生まれていた。平尾さんだった。同志社大の中心選手として、全国大学選手権3連覇を達成。すでに日本代表に選出されていた逸材は、留学のため、英国に渡った。そこで予期せぬ出来事が起きた。

まだラグビー界がアマチュアリズムに厳しかった時代。ファッション誌にモデルで登場したことが規定に接触した。日本代表候補から除外され、激しい批判にさらされた。もとより、本人に違反の認識はなかった。だが、多くの企業からの誘いもなくなった。

高校時代は京都・伏見工(現京都工学院)を日本一に導き、大学でも順風満帆だった。日本ラグビー界の期待を背負う存在だったとはいえ、まだ22歳。心を痛め、進む道に迷いが生まれた。

胸中を察した上門さんは、平尾さんに声をかける。伝えたのは、こんな言葉だった。

「そんなもん、普通に帰ってきたらええんや」

帰国すると、親しい知人が集まり、元気づけようと歓迎パーティーを開いた。会食の場で上門さんと再会した。

生前、平尾さんは周囲にこう漏らしていたという。

「おっさんが『おっ、おかえり』って言ってくれたんが、うれしかってん」

親しみを込めて「おっさん」と呼ぶ上門さんがかけたのは、この一言。

「おっ、おかえり」-

ラグビー界の目は厳しく、冷ややかになっていた。だからこそ、その言葉に救われ、平尾さんは涙を流していた。

15年ヤマハ発動機戦 選手を見守る上門俊男さん(左)と平尾誠二さん(神戸製鋼提供)

15年ヤマハ発動機戦 選手を見守る上門俊男さん(左)と平尾誠二さん(神戸製鋼提供)

金を残すな、人を残せ

2021年2月24日。

まだ寒さの残る、よく晴れた日だった。

平尾さんの後を追うように上門さんはこの世を去った。翌日が74歳の誕生日だった。

2019年W杯日本大会を控えた2年前の5月に、胃がんが見つかった。2020年12月からは、体に激しい痛みが生じていた。最後は家族に見守られ、静かに息を引き取った。

尼崎市の阪急電鉄武庫之荘駅から南へ徒歩5分の場所に、ラグビー用品店「ウエカドスポーツ」はある。43年前、上門さんは結婚を機に店を構えた。

ぶれない信念で、商売を続けた。

金を残すな、人を残せ-

30年ほど前からは2人の愛娘の子育てと並行し、10歳下の妻も店で接客した。

大学までラグビー部に所属。2013年10月に日刊スポーツ大阪本社へ入社。
プロ野球の阪神を2シーズン担当し、2015年11月から西日本の五輪競技やラグビーを担当。
2018年平昌冬季五輪(フィギュアスケートとショートトラック)、19年ラグビーW杯日本大会、21年東京五輪(マラソンなど札幌開催競技)を取材。
21年11月に東京本社へ異動し、フィギュアスケート、ラグビー、卓球、水泳などを担当。22年北京冬季五輪(フィギュアスケートやショートトラック)、23年ラグビーW杯フランス大会を取材。
身長は185センチ、体重は大学時代に届かなかった〝100キロの壁〟を突破。体形は激変したが、体脂肪率は計らないスタンス。