【闘魂の実像:馬場編1】馬場を兄と慕い、分け合って食べた1杯45円のラーメン
アントニオ猪木さんが2022年10月1日午前7時40分、心不全のため都内の自宅で亡くなった。79歳だった。日刊スポーツでは06年に行った計8時間に及ぶロングインタビューをもとに45回の連載を掲載した。そこで綴られた波瀾万丈の人生を「闘魂の実像」と題して再録する。第1章はジャイアント馬場編、第2章モハメド・アリ編、第3章新日本プロレス編。(敬称略)
プロレス
〈第1章・第1回(全45回)〉
アントニオ猪木とジャイアント馬場。性格もファイトスタイルも異なる2人は、強烈な個性でプロレス黄金時代を築き、けん引してきた英雄だった。ともに1960年(昭35年)に力道山の日本プロレスに入門。同期の戦友はやがてたもとを分かち、宿命のライバルとしてしのぎを削った。猪木にとって馬場とはどんな存在だったのか。出会いから、盟友時代、そして決裂に至るまで、数々の秘話をもとに、2人の関係にスポットを当てる。
第1章 ジャイアント馬場編 全15回はこちらから読めます
- 【第1回】分け合って食べた1杯45円のラーメン
- 【第2回】馬場への嫉妬心と力道山への不信感
- 【第3回】力道山の下から離れよう…自問自答の日々
- 【第4回】脳裏に焼き付いた力道山の嬉しそうな顔
- 【第5回】米国で認められ初めて抱いた優越感
- 【第6回】外国人扱いに怒り 新団体で勝負に出た
- 【第7回】猪木が「命を懸ける気持ちで戦った」幻の名勝負
- 【第8回】大スキャンダルきっかけにBI砲時代幕開け
- 【第9回】馬場を立ててエゴを隠した猪木、それにも限界が
- 【第10回】団体の社員まで猪木派と馬場派に
- 【第11回】急ぎすぎた改革「クーデター」で永久追放
- 【第12回】倍賞美津子の実家に居候、新日本設立し再起
- 【第13回】力道山十三回忌に新日VS全日の興行戦争
- 【第14回】猪木の執念、ブッチャー引き抜きに興行つぶし
- 【第15回】「おまえはいいよな。好き勝手できて」が最後
17歳、移住先ブラジルから帰国
1960年(昭35)春、移住先のブラジルから帰国した猪木は、日本プロレスに入門した。当時、まだ17歳だった。すぐに東京・人形町にあった日本プロレスの道場に案内された。そこで2メートルを超える大男を紹介された。数日前にプロ野球の巨人投手からプロレスに転向した22歳の馬場だった。やがてプロレス史を2分する、宿命のライバルとの初対面だった。
田口潤Jun Taguchi
入社以来、スポーツ部では、五輪競技、相撲、サッカー、プロレス、格闘技、ボクシング、ゴルフを担当。五輪は98年長野、04年アテネ、14年ソチ、16年リオデジャネイロ大会を取材。
プロレス取材は05年で、新日本の暗黒時代だった。