【闘魂の実像:馬場編1】馬場を兄と慕い、分け合って食べた1杯45円のラーメン

アントニオ猪木さんが2022年10月1日午前7時40分、心不全のため都内の自宅で亡くなった。79歳だった。日刊スポーツでは06年に行った計8時間に及ぶロングインタビューをもとに45回の連載を掲載した。そこで綴られた波瀾万丈の人生を「闘魂の実像」と題して再録する。第1章はジャイアント馬場編、第2章モハメド・アリ編、第3章新日本プロレス編。(敬称略)

プロレス

〈第1章・第1回(全45回)〉

1960年6月7日、ファンに紹介された馬場正平(右=ジャイアント馬場)と猪木完至(中央=アントニオ猪木、猪木寛至)、左はレフェリー九州山

1960年6月7日、ファンに紹介された馬場正平(右=ジャイアント馬場)と猪木完至(中央=アントニオ猪木、猪木寛至)、左はレフェリー九州山

アントニオ猪木とジャイアント馬場。性格もファイトスタイルも異なる2人は、強烈な個性でプロレス黄金時代を築き、けん引してきた英雄だった。ともに1960年(昭35年)に力道山の日本プロレスに入門。同期の戦友はやがてたもとを分かち、宿命のライバルとしてしのぎを削った。猪木にとって馬場とはどんな存在だったのか。出会いから、盟友時代、そして決裂に至るまで、数々の秘話をもとに、2人の関係にスポットを当てる。

第1章 ジャイアント馬場編 全15回はこちらから読めます

17歳、移住先ブラジルから帰国

1960年(昭35)春、移住先のブラジルから帰国した猪木は、日本プロレスに入門した。当時、まだ17歳だった。すぐに東京・人形町にあった日本プロレスの道場に案内された。そこで2メートルを超える大男を紹介された。数日前にプロ野球の巨人投手からプロレスに転向した22歳の馬場だった。やがてプロレス史を2分する、宿命のライバルとの初対面だった。

スポーツ

田口潤Jun Taguchi

入社以来、スポーツ部では、五輪競技、相撲、サッカー、プロレス、格闘技、ボクシング、ゴルフを担当。五輪は98年長野、04年アテネ、14年ソチ、16年リオデジャネイロ大会を取材。
プロレス取材は05年で、新日本の暗黒時代だった。