香川真司のC大阪復帰の経緯 小菊監督が初めて明かした珠玉のエピソード/連載8

セレッソ大阪監督の小菊昭雄(48)がインタビューに応じ、MF香川真司(34)が今季12年半ぶりに復帰した際の秘話を初めて明かした。自身がスカウト時代に発掘した当時高校生の香川と、今季から監督と選手の関係で運命はつながった。昨年末、2人で食べたもんじゃ焼きがJリーグ復帰への糸口。珠玉のエピソードが、指揮官の口から語られた。(敬称略)

サッカー

〈プロ選手経験のないJ1指揮官の挑戦〉

正直「こいつ、すげえな」

-このインタビューが実施された11月8日時点で、今季リーグ戦でC大阪唯一の全31試合に出場しているのが香川だ。チームは6位で上位争いを展開。この原動力となった活躍を、監督は想像できたのか

小菊 健康体であればという条件付きで、活躍できるとは思っていた。心身の状態が維持できれば、チームの先頭を走ってくれる、揺るがない信頼はあった。ただ(昨年11月に)手術した箇所(左足首)だけでなく、いろんなところに痛みを抱えていた。世界のトップトップの環境で1人で戦い、日本代表でもそう。手術から状態が戻るのか。(C大阪が実施した今年1月の)キャンプにも参加しておらず、突貫で開幕に間に合わせてくれた。

-W杯カタール大会のメンバー発表が昨年11月1日にあり、香川は落選。14年ブラジル、18年ロシア大会に続く出場がかなわず、左足首の手術を決断した

小菊 真司はこの数年、ずっと足が痛かったので、実は僕は早く手術することを勧めていた。でも、彼はW杯代表発表までは手術したくない、すれば長期離脱になるし、自然とそこでチャンスがなくなる。本気で代表を目指し、正直「こいつ、すげえな」と思った。代表発表の後、約束通りに手術をします、と連絡をくれた。僕は「W杯を本気で目指していた香川真司を誇りに思う」と返信した。

シントトロイデン入団会見時の香川

シントトロイデン入団会見時の香川

雰囲気で分かった香川の気持ち

-香川の当時所属先はベルギー1部シントトロイデンだった。ドルトムントへ旅立った10年7月以来となる、C大阪復帰への分岐点はあったのか

小菊 一番の出来事は昨年末ですね。真司が「小菊さんと1度、年が明けるまでに会いたい」と言ってくれていた。なかなかタイミングが合わなかったが、彼がリハビリしている東京に、僕が行くということになり、もんじゃ焼きを食べながら話をした。彼も今後についてすごく悩んでいたし、いろんな思いが入り交じる中、真司はこっち(日本)に帰ってきたいのかなと感じた。長年の雰囲気でですね。だから、Jリーグに帰ってくるんやったら、思い切り飛び込んできてほしい、不安とか一切抱かずに、身を預けてほしいと話をした。僕の思いは、このタイミングで伝えないといけなかった。(復帰への)節目になったかと言えば、そう思う。結論を急がすのもいやだったし、あとはクラブの強化部(チーム統括部)に任せた。

-次の動きは年が明けた23年1月下旬、香川にC大阪復帰という報道が出た

小菊 その数日前、真司から「小菊さんとズームでサッカーの話がしたい」という連絡が、強化部を通じて僕のところへ来た。それを経て最終判断をしたいということだった。僕は、セレッソに帰ってくるなと思った。そこで彼が思っているシステム、スタイル、サッカー観、クラブの未来をどう作っていきたいか、真司が帰ってきた時には、という前提でいろんな話をした。彼のいるベルギーと、僕たちがキャンプをしていた宮崎市内のホテルで、1時間程度だった。

練習を見守るC大阪小菊昭雄監督(前列左)

練習を見守るC大阪小菊昭雄監督(前列左)

変わってきた香川との距離感

-最終的にどんなリアクションだったのか

小菊 真司は「分かりました。小菊さんの思い描いているセレッソの未来、スタイルは理解しました。もし自分が帰った時、どの立ち位置で期待されているのかも分かりました」と。数日後、彼から復帰する決断の連絡を、クラブ経由でもらうことになりました。

-監督は以前、スカウトと高校生から始まった2人の関係は「家族、兄弟」と言っていた。それから18年たち、「監督と選手」の関係になる時がきた。まるで大河ドラマのようだ

小菊 自分が監督をやれるうちに、スカウト時代に携わった真司と、こういう仕事ができるならほんまに運命やと思ったし、その運命を大事にしたかった。彼とは一緒に、強いセレッソを作っていく思いを共有していた。今までは家族のような付き合いで当然、僕は彼のサポーターでもあったし、彼の喜びは僕の喜びでもあった。ただ、それとは違う距離感を覚悟しないといけなかった。監督と選手という、違う距離感になっていく。それも伝えた。その中でも平等な競争をしながら真司の経験、サッカー選手としての質、リーダーシップを含めた人間性など力を貸して欲しいと、彼には伝えました。

-監督と選手の関係になったことで、2人の会話が減ったと聞く

小菊 監督は、どの選手とも同じ距離感でやらないといけない。真司には特別なリスペクトを持っているが、今まで何かあるたびにしゃべっていた彼との会話が、1週間なかったり。逆に言えば、チームが好調な時は会話しなくてもいい時もあるし、真司がコンディション的に苦しそうやなとか、落ちてきたなとか、チームがしんどいな、と思う時は彼としゃべるようにした。そこは、チーム内のバランスを取りながらやってきた。

-その関係は喜怒哀楽で言えば、どんな感情なのか

小菊 やっぱりね、真司だけじゃなく、どの選手ともそうだが、付き合いの長い選手が本当に多い。そういう意味では「哀」になるんですかね。(距離を置くことで)ちょっと寂しいというか。でも、監督を受けた以上は当然覚悟してやっているし、1人1人との距離感を取らないといけない。寂しいのがいやだったら、この仕事を辞めるべきだと思っている。そこの信頼感は、真司だけでなく、長年やってきた選手、付き合いの短い選手も、つながっていると僕は信じている。

人生初のアンカー

-今季の香川はFW、インサイドハーフ、ボランチ、アンカーと多種多様な位置や役割を担っている

小菊 真司のコンディションもあったし、監督としてチームでどう輝くか、誰と組ませれば彼のよさが引き出されて輝くかを当然、考えないといけない。そうした時、ゴールに近い位置からスタートし、だんだん攻守に試合をコントロールする役割を担ってもらった方が、チームはうまく機能するとなった。「小菊さんから与えられたポジションで、僕はチームのために、1人の選手としてしっかりやります」と言ってくれた。うれしかったし、頼もしいし、感謝しかない。

-10月下旬からは人生初というアンカーを担い、特に充実感を漂わせている

小菊 僕もそう感じる。真司のいいところは、素直に聞ける、オープンに何事も積極的に、失敗を恐れずトライできるところ。16、17歳の時から彼は何も変わっていない。アンカーは本人が今、やりたい位置かといえばノーかもしれないが、自分の将来、チームの勝利のために愚直にトライするのはすごい。そこでまた見える景色が、彼の中ではすごく新鮮だったと思う。

-その意味で、期待以上の香川真司でもあった

小菊 そう。この2、3年は試合を満足にやってきていない選手が、日本に復帰して精神的な重圧もあったと思う。香川真司はやれるんか、どうやねんと。その中で30試合以上、ここまで突貫でよくやってくれた。すごいなと思う。途中でコンディション面で休ませたり、けが、古傷が痛んだりとか、あるかなと思っていた。彼も言っていたが、湿気の高い日本の特別な夏でもやりきったのは、改めて彼の努力のたまもの。血となり肉となり、今を支えているんやろうなと思う。

インタビューに応じるC大阪小菊昭雄監督

インタビューに応じるC大阪小菊昭雄監督

常勝チームにする責任

-香川をさらに成長させることも、小菊流ならできるのではないか

小菊 いろんなポジションをやって、いろんな景色を見たことで、彼の潜在能力を引き出す、重要な時間になったと僕は思う。けがの再発もせず、いろんな痛みは抱えながらだが、大好きなサッカーができている。まだまだ彼のサッカー人生は輝かないといけない。セレッソを常勝チームにし、たくさんの星(タイトル)を、彼自身がしっかりとエンブレムに刻んでから引退すべきだ。まだまだ、やるべきことはたくさんある。

-2人でタイトルを獲得したいのが本音では

小菊 僕もこのクラブで長くやりたいが、例えば3連敗、5連敗をしたら、チームを去らないといけないかもしれない。監督は置かれている立場が全然違う。真司はどの監督がきても、このクラブを常勝チームにする最後の責任があると思う。このクラブに育てられた恩義をまっとうして、現役生活を終えてほしい。その時に、僕が一緒に監督としてそのタイミングまでやれれば、そんな幸せなことはないと思う。僕自身も(長期政権を)勝ち取らないといけない。僕もそういう日が訪れるように、選手と手に手を取り合ってしっかり、常勝軍団にしていけるようには頑張りたい。

(※このインタビューの翌日、小菊の24年シーズンの監督続投が発表された)

小菊昭雄(こぎく・あきお)

1975年(昭50)7月7日、神戸市生まれ。滝川二、愛知学院大を経て、98年C大阪下部組織のコーチにアルバイトで採用された。スカウト時代に発掘した香川を06年に入団させ、同年以降は主にトップチームでコーチを務め、21年8月に監督に昇格。21、22年とルヴァン杯は連続準優勝。179センチ、70キロ。趣味はランニング。家族は夫人と1男。

香川真司(かがわ・しんじ)

1989年(平元)3月17日、神戸市生まれ。FCみやぎバルセロナ所属時の06年1月、高校2年でC大阪入団。10年7月からドルトムント、マンチェスターU、ドルトムント、ベシクタシュ、サラゴサ、PAOK、シントトロイデンに所属。23年2月、12年半ぶりに古巣C大阪へ復帰。08年北京五輪、W杯は14年ブラジル、18年ロシア大会代表。国際Aマッチ通算97試合31得点。175センチ、68キロ。

スポーツ

横田和幸Kazuyuki Yokota

Osaka

大阪府池田市生まれ。1991年入社。
93年Jリーグ発足時からサッカー担当で、当時担当していた出世頭は日本代表監督になった広島MF森保一。アジアの大砲こと広島FW高木琢也の当時生まれた長男(利弥)を記者は抱っこしたが、その赤ちゃんがJ3愛媛のDFで今秋30歳に。
96年アトランタ五輪、98年W杯フランス大会などの取材を経て約13年のデスクワークに。19年から再びサッカーの現場へ。