優勝賞金1億円と競輪最強の称号をかけたバトルが、輪界納めの大一番だ。

 KEIRINグランプリ2015(GP)が今日30日、東京・京王閣競輪場で号砲を迎える。昨年覇者の武田豊樹(41=茨城)はスピードスケート時代は清水宏保氏(41)、輪界では平原康多(33=埼玉)との絆で戦ってきた。波瀾(はらん)万丈のアスリート人生の集大成。史上2人目となる2年連続のGP制覇で結実する。

 アスリート人生-。人という字は2つの線が、ともに支えあって人となる。武田は自らの生きざまを縦糸に清水、平原の生きざまを横糸として絆で紡いできた。2年連続の頂点。GP連覇の大作を紡ぎあげる。

 スピードスケート時代は清水と覇を競った。2人は小学校時代から頭角を現した。

 武田 当時から体が小さいのに強かった。無口だったけど、ウマが合った。宏保というすごいやつがいたおかげで頑張れた。

 高校選手権では清水を下し、2冠に輝いた。期待を集め、社会人の王子製紙入りしたが、タイムが伸び悩み、引退を決意。23歳で日本競輪学校を受験した。当時は年齢制限が24歳以下のラストチャンスだったが不合格…。

 武田 無職になった。どうしようかな、と思っていた時に橋本聖子さん(参議院議員)に拾われた。

 失意のアスリートは橋本議員の雑用係兼運転手となった。だが、北海道生まれの北海道育ち。東京周辺の土地勘もない。カーナビも普及していなかった。地図を片手に「羽田空港から国会議事堂、そこから」という分刻みのスケジュールにハンドルを切る日々。常に緊張から解放されない不規則な生活に心身を削った。

 武田 体重は一気に7~8キロ減って気がついたら10キロ以上…。このままでいいのかな。1人になったらそんなことばかりを。

 苦悩にまみれ、疲弊し切った男を橋本議員が救った。同議員のサポートでスピードスケートに再挑戦。くすぶり続けていたアスリート魂を再点火させた。02年のソルトレーク五輪代表で500メートル8位、連覇を狙った清水は銀メダル。2人の絆が五輪に結実した。

 武田に風が吹いた。直後に五輪などで実績を挙げた選手を対象とした特別選抜枠が新設。1度は閉ざされたバンクへの道が開いた。

 武田 子供のころから自転車も好きだった。1度は諦めた五輪の夢がかない。1度は諦めた競輪の夢が。

 03年7月のデビュー場所は決勝で落車、いきなり右鎖骨骨折の洗礼を浴びた。そんなコンクリート上の格闘技では平原という信頼できる男に巡り合えた。GP、G1で2人の連係で4度ずつの栄冠を分かち合ってきた。輪界屈指のスピード型。鉄の結束で大舞台を制圧してきた。

 武田 前を任せるということは、一緒に負けてもいい、ということ。平原君とはそう信頼できる関係。前後の並びは、いつもあうんの呼吸。今回は自分が先頭で風を切ると言った瞬間に分かってくれた。戦闘能力が衰えたと思ったらおしまいだと思っている。先行というのは競輪の醍醐味(だいごみ)で華ですから。

 13年7月高知G3の追走義務違反で失格し年内出場停止。同年12月に選手会からの離脱騒動で昨年5月から1年間の出場自粛の処分-。平原とは出場自粛の苦悩も分かち合った。

 一点の曇りもなく意志を共有する希有(けう)の存在を得た。競輪は自力選手の後ろを回る「番手」有利がセオリーだが、いまだ機動型の自負を懸けて前で戦う。人生は波瀾(はらん)万丈。悲願のGP初戴冠を飾った2日後の今年元日に父康生さん(73)が脳挫傷の重傷を負った。順調な回復を続ける父に連覇をささげる。長い夜に耐えたものに新しい夜明けが来る。武田覇道の「朝が来た」。【大上悟】

 ◆武田豊樹(たけだ・とよき)1974年(昭49)1月9日、北海道斜里町出身。釧路緑ケ岡高(現武修館高)卒。02年ソルトレークシティー五輪のスピードスケート代表から転向、競輪学校88期生で在校3位。03年7月立川デビュー(11落棄)。09年3月の日本選手権でG1初優勝、通算G17冠。昨年の岸和田GPを初制覇。通算934戦373勝。通算獲得賞金12億7961万2758円。177センチ、90キロ。家族は智恵子夫人(34)と長女凜々(りり=4)次女樹来(きら=1)。