ドーハ戦士は今、何を思う。元日本代表MF吉田光範氏(59=現JFL刈谷テクニカルディレクター)が9日までに日刊スポーツの取材に応じた。現役時代、日本代表森保一監督(53)と代表でチームメート。あうんの呼吸のダブルボランチで中盤を引き締めた。94年ワールドカップ(W杯)アメリカ大会のアジア最終予選イラク戦に、そろって先発出場。試合は引き分けに終わり、「ドーハの悲劇」を味わった。ショックで記憶が飛んだというあの日を振り返り、再び苦しいアジア最終予選を戦う後輩たち、かつての相棒へ「同じ思いはして欲しくない」とエールを送った。

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今から約28年前。ドーハのピッチでは、信じられない光景が目の前に広がっていた。吉田氏は「負けていないんだけどな…」。今でも、本気で悔しがる。オンライン取材にもかかわらず、熱量が画面越しに襲いかかった。負けてはいない。引き分け。それでも、手にかかっていたはずのW杯初出場の切符は、無情にもこぼれ落ちた。93年10月28日のイラク戦。「体が動かなかった」という。「ちゃんと見て判断しているけど、体が…。考えて動くけど、1歩、2歩遅れた」。そんな経験は、後にも先にも、あの日だけだった。

FW陣にはカズ、中山雅史、長谷川健太、トップ下にはラモス。強力な個も、いつもの姿ではなかった。「周りを見ると、みんな何秒か遅れている。井原、柱谷、ラモスさんも」。明らかに異様だった。「これが本当のプレッシャー」だった。勝てば、文句なしでW杯。前半から高ぶっていた。カズの得点で1-0でリードし、ハーフタイムに突入。ロッカールームでは、いろんな選手が意見をぶつけ合った。独特の緊張感があった。「コントロール出来なかった」。アドレナリンが出まくっていた。オフト監督が「シャラップ」と叫んだが、興奮状態は続いた。「目に見えない何かがあった。体が動かない状況が出ていた」。今も答えは見つからない。

中山の得点で2-1として、体はさらに硬直した。「体が言うこと聞かない」。摩訶(まか)不思議な体験の中、悲劇のホイッスルが鳴り響いた。後半ロスタイムに同点とされ、日本に歓喜は訪れなかった。その後の記憶は「ほぼ、覚えていない」-。どのように帰りのバスに乗り込んだのか、いつホテルに戻ったのか、部屋にどう入ったのか…。「本当にどうやって帰ったのか覚えていない」。いまだに、あの日の、あの時の記憶は、プツンと切れたままだ。

過酷な中で、日の丸を背負っていた。当時はホームアンドアウェーではなく、1カ所でのセントラル方式が採用され、ドーハで集中的に試合が行われた。日本だけではなく、他のチームも宿舎が同じ。「いや~、すごい中で、試合をしていたね」。食事会場では韓国代表のキムチが印象に強く残った。エレベーターでは、他国の選手と同じになった。現在では、想像もつかないことが、そこにはあった。

今、思う。あの時、何が足りなかったのか-。それは判断力。「一瞬、一瞬の判断ミス、プレーのミスが命取りになる」。同時に後ろ向きな姿勢は、相手を優位に立たせてしまう。「前を意識して、どれだけプレーし続けるか。後ろ向きになることがリスク。これ以上ない集中力で、前向きに強気に行かないと。そうでなくなると、勝つためのリズムを崩す」。何度もこう繰り返した。「アジア最終予選は別物。難しい大会だった」と。

あの日、森保監督もピッチに立っていた。吉田氏は同監督と出会った時のことを、今も覚えている。「森保が代表に初めて呼ばれた時かな。メンバー表で名前を見て、森?? 柱谷とこれは、何と呼ぶのかって(笑い)だからもう、『ぽいち』でいいやって」と笑う。「彼はクレバーで、ボールを奪うことがうまい選手。代表に初めて入って、ラモスさんとか、そうそうたる選手がいる中でも物おじせず、コミュニケーションを取っていた。精神的にも強い」。頼もしい6歳下の後輩と、ボランチを組んだが、日本サッカー界に新たな歴史を刻むことはかなわなかった。

そんな相棒が今、苦しんでいる。日本代表の監督として、再びアジア最終予選の苦しさを味わっている。初戦のオマーン戦を見た吉田氏は「攻めるべき時に、攻めていない。“今だ”という時に攻めないと。守る時間を渡している」とリズムの悪さを指摘。「サッカーのリズムは崩れると、なかなか立て直すのは難しい」。同時に気になったことは、チームの後ろ向きな姿勢。「バックパスが多い。大事にしようとするが、何かかたちを作ろうみたいな、リスクを冒さないバックパスが多かった」と奮起を求めた。

日本代表の後輩たちに「同じ思いはして欲しくない」。「最後は自分の決断。仲間を信じて、自分を信じて」とエールを送った。森保監督に対しては「大きなイラク戦での経験もある。どう伝えるかというと難しいけど、集中力を保っていないと、一瞬でやられてしまう。同じ経験をさせないように、成功をしてほしい。そうでないと、日本のサッカーも伸びてはいかない」と強い思いを託した。

自身は、夢半ばで、W杯への挑戦を終えた。だからこそ森保監督に願う。W杯の切符を必ず奪い取ってほしいと。「日本サッカーの未来のために、勝ち抜かないといけない。W杯に出ることで、選手の移籍市場を開けたり、育成の指針が変わったり、レベルを上げたり、日本サッカーのファンを増やしたり、W杯に行くことで得られることはたくさんある」と続けた。

「あれから、だいぶ時間がたったね」。オンライン上で、「違う人みたいでしょ」と笑ってみせた。シワも白髪も増えた。来年3月には60歳。時の経過を感じている。「僕は、いちサポーターとして日本サッカーを応援している。その監督が、あの時、一緒にやった森保。子どもたちの夢も乗せて、頑張ってほしい」。ドーハ戦士は笑って、今なお戦い続けるドーハ戦士を思った。【栗田尚樹】

◆ドーハの悲劇 勝てば初のW杯出場が決まる試合で終了間際に失点して引き分け、W杯切符を逃した日本サッカー史上、最も悲劇的な出来事。1994年のW杯米国大会のアジア最終予選で、日本は93年10月28日にカタール・ドーハでイラクとの最終戦に臨んだ。カズと中山が得点。中盤のラモスや森保、吉田も奮闘し、2-1で終盤へ。W杯切符を手中にしたかという展開の中、相手にCKを与えた直後にロスタイム突入。イラクはショートコーナーからのクロスにオムラムが頭で合わせた。ボールは放物線を描き、日本のゴールに吸い込まれ、2-2で引き分けてしまった。日本は韓国と2勝2分け1敗で並んだが、得失点差で3位となり、2位以上に与えられるW杯切符を逃した。

◆吉田光範(よしだ・みつのり)1962年(昭37)3月8日生まれ、愛知県刈谷市出身。刈谷工高(愛知)からヤマハ発動機(現J2ジュビロ磐田)入り。天皇杯優勝などを経験。日本代表ではオフト監督のもと、いぶし銀のボランチとして活躍するなど、国際Aマッチ35試合2得点。95年の現役引退後は古巣の磐田でコーチなどを歴任。現在は愛知でヨシダサッカースクール代表、JFL刈谷のテクニカルディレクターなどを務める。日本協会公認S級ライセンスを取得している。