サッカー日本代表は16日、大阪・パナソニックスタジアム吹田で26年W杯北中米大会アジア2次予選の初戦のミャンマー戦に臨む。両者は21年5月のカタール大会アジア2次予選でも対戦。この試合では国歌斉唱時に国軍のクーデターに「抵抗」を示す3本指を立てた同国代表GKピエ・リヤン・アウン氏(27)の行動が注目された。帰国を拒否して難民認定を受け、日本に定住する同氏が日刊スポーツの取材に応じた。危険を冒してまで抗議の意志を示した理由、今回の試合への思いを語った。【取材・構成=平山連】

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日本戦でのミャンマー国軍への抗議行動から2年余り。同国元代表GKピエ・リヤン・アウン氏の姿は東京・日暮里にあった。クーデターに抵抗する自国民を支援する料理店「SRR」のスタッフを担当し、接客もだいぶ板についてきた様子で時おり柔和な笑みを浮かべる。2年前のことを尋ねると穏やかな表情が一転した。覚悟を決めた真剣なまなざしで、「あの時のことは決して後悔してない」と言い切った。

「軍隊による弾圧で多くの市民が犠牲になっていた。苦しい状況を世界に知ってもらわないといけないと考え、来日前から抗議行動をするとを決めていました」

もちろんスポーツと政治が切り離されるべきとの考え方も理解する。しかし、クーデターに反対する犠牲者は日を追うごとに増えるばかり。胸が痛み、いても立ってもいられなかった。

「チームメートたちと話し合って“一緒に行動する”と言ってくれた人もいました。試合前にとがめる人はいませんでした」

「WE NEED JUSTICE(私たちには正義が必要だ)」。そう書いた3本指を掲げて国歌斉唱を臨んだ。だが、行動に出たのは自分1人だけだった。家族は国に残っている。チームメートは、そんな中で抗議行動をした時の影響を考えて自粛したのだろう。そう思うと、仲間を責める気持ちにはなれなかった。一方、自身は抗議の代償として、実父から絶交を言い渡された。

「帰国すれば、命の危険がある」と帰国を拒否し、在日ミャンマー人らの支援を借りて日本に残った。21年8月には難民認定され、翌9月にはフットサルFリーグYS横浜にプロ選手として入団。元日本代表FW松井大輔ともチームメートとなった。前途洋々な未来が待ち受けているかに見えたが「精神的に病んだ」。同年末から「練習にも行くことができず引きこもっていた」という。

「ミャンマーで苦しむ友人や家族のことを考えるとつらくて…。ずっと心が痛かった。日本語もほとんど話せず、生活にも苦労しました。チームからはすごくサポートしてもらったのに貢献できずに申し訳ない」

1年の契約期間を満了して退団。22年3月をもって現役引退した。今でも在日ミャンマー人で作るサッカーチーム「MFC Tokyo」に所属し、週1回は仲間とボールを追いかけることがつかの間の息抜きだ。「サッカーをしている時が一番楽しい」と笑った。

16日に再び両国が相まみえる。2年前は0-10と日本に完敗した。「1人1人のレベルが全く違った。この2年で日本サッカーに触れて、育成環境や選手への支援が比べものにならないと感じた」と驚きを隠せなかった。注目の一戦にも、自身の信条からテレビでも見るつもりはない。「今のミャンマー代表を応援することは軍事政府を認めることになる。真の国民の代表という、子どもの時から憧れた姿はそこにありません」。幾多の困難にもめげず、母国の現状を懸命に訴えかける姿は2年前と変わらなかった。

◆W杯カタール大会アジア2次予選のミャンマー戦VTR 21年5月28日、千葉・フクダ電子アリーナでコロナ禍により無観客で行われた。MF南野が前半8分に先制ゴールを決めると、大迫らの立て続けの追加点で前半4得点、後半も6得点の猛攻で10-0の完勝。2試合を残して最終予選進出を決めた。試合前の国歌斉唱時にはミャンマー代表GKピエ・リヤン・アウンが3本指を掲げ、クーデターで全権掌握した国軍に抗議した。

◆最近のミャンマー情勢 21年2月1日に国軍によるクーデターが発生し、ウィン・ミン大統領や与党の国民民主連盟(NLD)を率いるアウン・サン・スー・チー氏が拘束された。人権団体「政治犯支援協会(AAPP)」によると、11月10日までに2万5398人が逮捕され、そのうち1万9672人が現在も拘束中で、さらに国軍の武力行使で市民ら4180人が殺害されたという。

◆ピエ・リヤン・アウン 1995年12月17日、ミャンマー中部のマンダレー出身。中学時代に兄や友人たちとストリートサッカーに明け暮れ、2012年にミャンマー・ナショナルリーグのヤダナボンFCに加入。GKとして世代別代表に選出され、19年にはフル代表に選ばれた。好きな選手は「総合的に能力が高いから」と元スペイン代表GKのカシージャス。