[ 2014年2月22日9時43分

 紙面から ]メダルセレモニーで、銅メダルを胸に笑顔を見せる小野塚(右)(撮影・井上学)<ソチ五輪:フリースタイルスキー>◇決勝◇20日◇ハーフパイプ

 小野塚彩那(25=石打丸山ク)が銅メダルを獲得した。予選を4位で通過すると、決勝では1本目に79・00点、2本目も83・20点と高いエアと安定した滑りを見せた。亡くなった祖父の言葉を胸に、アルペンスキーや基礎スキーから転向して約3年で表彰台まで上り詰めた。

 低い助走姿勢でハーフパイプに入ると、小野塚はスピードにのって3メートルの高さまで飛び出した。高難度の回転技は入れず、安定したエアで勝負。12人中、1人が棄権、5人が転倒した決勝で2本とも高得点を出した。銅メダルが確定した瞬間、涙をぬぐった。「信じられない。今までの苦しかったことは忘れました。全部思い出です」。母ゆかりさんの姿を見つけると駆け寄った。2人の祖父の遺影を受け取るとキスし、夜空に掲げる。また涙があふれた。

 エアの高さが評価された。幼い頃から速さを競うアルペンスキーで腕を磨いた。大学時代には整備されている、されていない斜面どちらもいかに上手に、美しく滑るかを競う基礎スキーにも挑戦。体に染みこんだスキー板を操る技術が、ハーフパイプでも生きた。上野コーチは「スキーをしっかり滑らせることで、高さが得られている」という。

 小学生時代、少年団のコーチをしていた父にくっついてジャンプも飛んだ。斜面を滑るスキーに慣れた大人が、空中に飛び出す感覚を習得することは難しいが「怖くない」。長所を伸ばすため、体操クラブに出向き、トランポリンに力を入れた。母方の実家が経営する旅館「勝田屋」に泊まるプロスノーボーダーと一緒に練習。「どうやって滑るの」と質問攻めにした。

 11年にハーフパイプに転向。海外遠征は自費参加と、資金面の苦労は絶えなかった。スポンサー探しに奔走する姿を見た「勝田屋」の常連客の小林由紀子さんらが中心となり、後援会を立ち上げて金銭面をサポート。強化指定選手になった今季はスタッフに資金をかけることができた。06年トリノ、10年バンクーバーの両五輪でスノーボードHP日本代表を指導した綿谷直樹氏にプライベートコーチを頼み、遠征に同行してもらった。「彼なくして、今の私はいない。細かいところは全部伸びた」。跳ぶ際の踏み切りのタイミングなどを見直し、メダルにつなげた。

 根っからのおじいちゃん子。母方の祖父勝利(かつとし)さんから「1位以外は全部一緒だ」と植え付けられた。その魂を受け継ぎ、1位以外の賞状は2つに折って持ち帰った。誰よりも応援してくれた祖父は、12年3月に68歳で他界。五輪代表が決まったとき、弟の光輝さん(19)に「遺影を連れてきて」と頼んだ。

 試合には形見の金のネックレスをつけて臨んだ。新たな歴史に名を刻んだ小野塚は「現地で見てもらえてよかった」。最高の恩返しを喜んだ。【保坂恭子】<小野塚彩那(おのづか・あやな)>

 ◆生まれ

 1988年(昭63)3月23日生まれ、新潟県南魚沼市出身。

 ◆経歴

 塩沢小-塩沢中-湯沢高-専大。

 ◆名付け

 母のゆかりさんが歌手の長渕剛ファン。小野塚の6日前(88年3月17日)に生まれた長渕の第1子の長女「文音(あやね)」という名前が由来。

 ◆家族

 ジャンプ選手だった父と、アルペンスキーヤーだった母、弟。2歳でスキーに慣れ親しみ、母ゆかりさんが雪の積もった小さな坂の上から手を離すと下まで転ばず滑った。

 ◆夢

 小学生の頃の夢は「鳥になりたい」。親は「なれるものなら、なってみなさい」と笑ったが、空中で技を決めるハーフパイプを始め、母は「本当に鳥みたいになる道に進んだ」。

 ◆転向

 11年4月、スキーハーフパイプが五輪新種目に決まり、家族に「ソチいく」と宣言。「勝てると思ったから」基礎スキーから転向も、同年12月9日、最初のW杯で出場36人中35位。この悔しさがバネに。

 ◆表彰台

 11年からW杯に参戦。12年8月カードローナ大会で3位、13年2月パークシティー大会2位、14年1月ブリッケンリッジ大会2位。13年3月の世界選手権は銅メダル。

 ◆サイズ

 158センチ、50キロ。

 ◆血液型

 A型。