暑さを避けるため、2020年東京オリンピック(五輪)のマラソン、競歩の会場が札幌市に移転することになった。1日の東京都、国際オリンピック委員会(IOC)、東京五輪・パラリンピック組織委員会、政府の4者協議で最終決着した。

近代五輪124年の歴史で初めて、開催都市圏でマラソンが行われない、異常事態となった。五輪の華、マラソンロス-。東京から五輪の景色の1つが、失われることになった。その喪失感を、担当記者が掘り下げる。

   ◇  ◇  ◇

いつもの道が飾られ、キラキラと輝いて見えた。日の丸の小旗を手にした人、人、人が歩道を埋め尽くした。父親の肩車から広がる視界の先を、選手たちが猛スピードで駆け抜けた。1964年(昭39)10月24日、甲州街道は別世界だった。まだ街には外国人が少なかった時代。黒人や白人、超長身選手…。4歳の私には衝撃的だった。東京五輪のマラソンで「世界」を感じた。「スポーツ」を知った。そこには「未来」が「夢」が詰まっていた。

小学生になると、東京五輪が話題になった。記憶にあるかは怪しいが、みな写真や周囲の話で追体験をしているのだ。「アベベは速かった」「円谷も頑張っていた」…。「僕も見たよ」「私も見たわ」。東京五輪=マラソン。自分の目で見たことが自慢だった。

大人も同じだ。東京五輪決定後、インタビューをした。「64年大会の一番の思い出は?」。長嶋茂雄さんは「マラソン、ですね」、ビートたけしさんも「アベベだよ」。東洋の魔女も、ヘーシンクも、東京五輪を代表する存在。しかし、半世紀を過ぎても鮮明に残るのはマラソンなのだ。

64年大会の沿道には、120万人が集まった。当時は決して都会ではなかった西東京のコースを、都の人口(約1000万人)の8分の1が埋めた。20年は高層ビルが立ち並ぶ都心部。毎年2月の東京マラソンで100万人を超えることを考えれば、数百万人の目に五輪が焼き付いたはずだ。

そんな東京五輪の華が、札幌へと移された。「合意なき決定」という小池都知事の声を聞いて、同じように甲州街道で見たという友人の言葉を思い出した。「3歳の孫と応援に行く。まだ、何も分からないよ。でも、オリンピックを見たことがいつか彼の宝物になる」。

アスリートファーストはもちろん重要。選手の健康を考えたIOCの決定は、理解できなくはない。しかし、それだけが五輪だろうか。選手のパフォーマンスだけを考えるなら、IOCが気候のいい場所に島でも購入して常設会場にすればいい。開催都市の子どもたちに夢を与えることは、五輪の大きな価値のはずだ。

あの日、甲州街道で見た「世界」のまぶしさ「スポーツ」のすごさ「オリンピック」の素晴らしさ。教えてくれたのはマラソンだった。もちろん、札幌の子どもたちは味わえる。それでも、6年前から楽しみにしてきた東京の子どもたち、そして64年大会を知る大人たちの思いを考えると「宝物」が移った喪失感はあまりに大きい。【荻島弘一】