日本人で唯一出場の松山英樹(29=LEXUS)が、2位に4打差をつけて首位に立ち、メジャー初優勝、3年8カ月ぶりの米ツアー通算6勝目に王手をかけた。

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日本ゴルフ界の悲願「マスターズ制覇」へ、松山が王手をかけた。2位に4打差は有利な状況に間違いはないが、サッカーで「2-0が最も危ないスコア」と言われるように、ゴルフで、いやマスターズでの4打差は、全く油断できない。

追いかける選手は、どんどん攻めてくる。開き直った世界の強豪ほど怖いものはない。自分のミスと、相手のナイスプレーで2打差は一瞬で詰まる。2ホールで4打差を追いつかれても驚かない。1996年大会は、僕が大好きだったグレグ・ノーマンが、6打差を守れず逆転負けした。過去6度、マスターズを取材してきたが、何度もスーパープレーを見たし、信じられないミスショットも目の当たりにした。だけど、今回だけは松山の勝利を信じたい。

10年前の2011年4月、松山が初出場したマスターズを取材した。東日本大震災からわずか1カ月。当時、東北福祉大2年のアマチュアだった松山は、甚大な被害を受けた仙台の状況を見て、出場するか迷った。自らもカップラーメンだけしか食べられず、体重も落ちた。それでも、参戦を決めたのは、多くの激励電話やメールをもらったから。“激励文”の総量を見させてもらったが、厚さにして10センチ以上あったと思う。ゴルフ部の阿部靖彦監督が、オーガスタまで持ち運んでいた。「そのひとつ、ひとつに温かい言葉があった」。松山は感謝の思いでいっぱいだった。

激励をくれたすべての人に恩返しするために、19歳は奮闘した。シャツの右袖に日の丸の刺しゅうを入れた特注ウエアを着て見事予選を通り、日本人史上初のベストアマを獲得。余震で家が停電に見舞われながらも、自家用車のテレビで応援してくれた仙台のファンに、結果で応えた。

あれから10年。細かった少年は、たくましい体に変貌して世界最高峰の米ツアー選手になった。17年以降優勝から遠ざかっているが、今年は目沢秀憲コーチをつけ、スタート前でもタブレットパソコンで入念にスイングを確認する姿をテレビで見た。もちろん、初出場時にはなかった光景だ。

ふとした瞬間に、松山のマスターズへの思いを感じたことがある。奈良国際GCで行われた12年日本アマの時だ。その日は雨だった。松山は当時から口数が多い方ではなかったが、僕がマスターズのロゴ入り傘を差しながら立っていると、近寄ってきて「オーガスタで買ってきたんですか?」と聞いてきた。試合中に声を掛けられたのは、あれが最初で最後。驚いたと同時に、頭の片隅に常にマスターズがあるように思えた。

プロ入り後の松山を取材したのは、実は数回しかない。ただ、松山のトレーナーを務める飯田光輝氏は龍谷大ゴルフ部出身で、僕は同志社大ゴルフ部出身。2歳年下の彼とは、関西学生ゴルフ連盟の仕事を2年間一緒にこなしたこともあり、親近感を持って「チーム松山」に注目してきたつもりだ。

震災から10年の節目の年に、悲願成就を祈りたい。

【01、03、05、07、09、11年マスターズ取材=元ゴルフ担当木村有三】