樋口久子(61=富士通)が生まれたのは戦後まだ2カ月、日本が混乱のさなかにあった1945年(昭20)10月13日だった。父武夫、母安代の五女として埼玉県川越市で生を授かった。

日本中が憔悴(しょうすい)しきっている中で、樋口家の五女は活発で元気な少女だった。中学時代は陸上のハードル選手。全国放送陸上の80メートルハードルで埼玉県2位に入った。高校は東京・世田谷区の私立二階堂高。「陸上が強い学校なので進学しました」。川越から世田谷までの遠距離通学。実はこのことが、後にプロゴルファー樋口を誕生させるきっかけになったのだ。

樋口「姉(明子)が東急砧ゴルフ場に勤務していたんです。それで姉の家から高校に通うようになった。でも、遠くの学校に来たから友達がいないでしょう。日曜になるとやることがなくて、姉についてゴルフ場へ遊びに行ってました」

やがて面白半分にボールを打つ。世の多くのゴルファー同様、彼女はその魅力的な感触に取りつかれた。1年生後半になると、陸上への興味が薄れ始める。速く走ることに費やしていた情熱が、ボールを正確に遠くへ飛ばすことにかけるパッションにすり変わった。

そんな3年間を過ごして、卒業の春…。

樋口「女子高でしたから進学するのはクラスの2分の1か、3分の1。就職率はよくて銀行とかデパートとか、大体思い通りの就職先に行けました。だけど、私は『いらっしゃいませ』と愛想よくできるわけでないし、机に座って事務をするタイプでもない。そんな時、姉から『ゴルフしてみたら』と言われたんです。そうか、2~3年でダメだったらほかのことやればいいか、という感じで川越CCへ就職しました。実家に戻って親元から通勤できるのもうれしかった。私は手先が器用で、高校の時にはスカートを縫ったりしていたんですよ。だからダメだったら、そっちの方面へ行こう、と思っていました」

川越CCの社長は中村寅吉。1957年、カナダカップ(現ワールドカップ=W杯)で個人優勝、小野光一と組んだ団体戦でも優勝を成し遂げ、日本にゴルフブームの火をつけた人だ。いま思えば、ゴルフを世に広めただけでなく、樋口久子という世界を制した女子選手までも誕生させたわけだから、日本でゴルフにかかわる誰もが、中村寅吉という存在に足を向けては寝られない。中村との師弟関係、そして腕を磨くに格好のコース、そんな環境の中で樋口はボールを打ち続けた。

樋口「先生(中村)には一から手取り足取り教えていただきました。川越CCはアップダウンが結構あるコースでね、だからすべてのショットを教わることができたのです」

練習に打ち込む日々に「ダメだったらほかのことやればいいか」という軽い気持ちはいつしか消えていく。

新幹線が開通し、東京五輪が開かれた。もはや戦後は終わった、と日本中がマグマのようなエネルギーを抱え込んでいた。川越のゴルフ場でひっそりと練習しながら、世界へ羽ばたくエネルギーを全身に充てんさせつつある1人の少女がいた。(つづく=敬称略)【編集委員=井関真】

【「師匠直伝の独特スイング 樋口がもっとも成長した「修行の日々」/樋口久子(3)】はこちら>>