川越CCの練習場勤務の傍ら、研修生として腕を磨く。樋口久子(61=富士通)にとっては基礎を積み重ね、やがてその土台の上に壮麗な建物を築き上げるための助走の時だった。40年以上も前のことだ。

樋口「朝、ゴルフ場へ行って、練習場に詰める。9時半になったら、たいていお客さんはいなくなります。そこからは一日中ボールを打てた。お昼だけですよ、休んで食事。ボール拾いしてコースに出てハーフを回らせてもらった。月に1度は研修会がありましてね。とにかく技術がうまくならなくてはいけない、と…。本当に修行の日々でしたね」

師匠・中村寅吉は小柄なプロだった。小さな体でいかに遠くへ飛ばせるか、それが中村のテーマだった。樋口は163センチあったが、世界を見渡せば決して恵まれた体格ではない。右足に重心移動してバックスイングをとり、ひねりと反動を利用して強いインパクトを生む独特なスイングは、もちろん師匠の直伝。というより、中村が研究し続けたことが、樋口のスイングに凝縮されていたのかもしれない。

「あれだけスエ―する感じで、うまく打たれましたね」。軽い調子で言ったら、樋口に鋭く切り返された。「あれはスエ―ではありません!」。断固とした口調だった。

樋口「上体のひねりが大きいだけなのです。構えた範囲内で最大の動きをしていただけです。スエ―してしまうとボールは飛ばない。先生には基本に忠実な教え方をしていただきました」

1967年10月、第1期女子プロテストが実施される。開催コースは川越CC。樋口の勤務先だ。26人の受験者は全員合格したのだが、73で回った樋口はトップ合格であった。研修会に参加していた25人もプロと認定され、女子プロ計51人がこの時、産声を上げた。もっとも当時の女子プロは組織化などされておらず、プロゴルフ協会内に女子部があるだけのみすぼらしい状態だった。しかし実はそこに、世界で通用する力を蓄える助けとなった一面があったようだ。

樋口「女子の競技でも男子の競技委員がコースの設定をするんですね。つまり、男子と同じような距離で女子も競技をするわけ、420ヤードのパー4なんかがいくらでもあった」

大まかな運営方法だったゆえに、むしろ女子プロの実力は備わっていったのかもしれない。ゴルフに限らず、世の中なんて何が幸いするか、分からないのだ。

初めてのプロテストが行われた前後が多分、樋口がもっとも成長した時期だったろう。月例会でも常勝だったという。

樋口「川奈(GC)で月例会をしたことがあった。富士と大島の36ホールを回るんです。この時はアンダーで回りましたよ。1アンダーだったか3アンダーだったか…。取手CCで69を出したこともありました」

難しいコースにもおじけづかない強さは備わった。あとはその力を、思い切りぶつけるときがやって来るのを待つだけ…。(つづく=敬称略)【編集委員=井関真】

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