樋口久子(61=富士通)が米国から持ち帰ったものは何だったのか? 全米女子プロ選手権というメジャー大会制覇の輝かしい戦歴、米女子プロのコースマネジメント、テクニック、そしてファッション…。日本選手の強い米ツアー志向は当然「樋口効果」の1つだろうか…。

72回の優勝によって彩られた樋口の現役生活は、ある時を境にピリオドを打つ。96年12月、日本女子プロゴルフ協会の総会で、圧倒的な信任を受けて会長に就任する。その時から、新しい人生が始まった。

樋口「それまでも何回か(会長に)推薦されたことはありました。私も50歳、年齢的にもいい潮時だし、今回は断れないな、と思った。プレーヤーとしていい思いをいっぱいさせてもらったし、協会のことをやって恩返しをしていこう、と。アメリカの合理的な面を見てきて、日本もああいうふうにしたいな、という気持ちもありましたからね」

97年2月8日に正式就任してから、彼女は日本の女子プロゴルフ改革に次々と手を打った。「ゴルファーとゴルフファンの拡大」をスローガンに、子供やファンと選手の距離を大幅に縮めた。トーナメントプロ部門とインストラクター部門に協会の組織を二分化したのは、米国の合理性に倣った施策だった。

樋口「試合で戦うことが目的の会員と、質の高い指導を目指すという会員は本来、別ですからね。それと社団法人になった時、外部からも受け入れなさいという指導があって、非会員でもQTで資格を得れば試合出場できるようにした。宮里(藍)さんですよ、1番目は。彼女が優勝してくれて、この制度で活性化が図れることを実証してくれた。学生や外国人選手など埋もれていた人が、どんどん出てきてほしい」

実はこの話を聞いたのは、中京テレビ・ブリヂストンレディスオープンの最終日が行われている最中だった。会場の中京GC石野コースは、名鉄「梅坪」駅からバスで30分はゆうにかかる。その日朝、大阪を出て午前8時前に名古屋へ、梅坪へ着いたのは9時前だった。ちょうど送迎バスへギャラリーが殺到する時間でもあったのだろう。30分以上行列してようやくバスに乗れたのだが、不思議なことにその間、不平不満をもらす人が周囲に1人もいなかった。

行列の整理、バスへの誘導をする人たちの手際は確かによかった。しかし、こんな場合、必ずどこかで文句が出るものなのに、一切なかったのだ。「さくらちゃん、今日はどうかね?」「見られるやろうか?」。みんながゴルフ観戦を楽しみに待ちわびていることが、漏れ聞こえてくる会話からしのばれた。

樋口「そうですか。そんな雰囲気でしたか…」

そのことを伝えると、樋口は口元に笑みを浮かべた。その時、ふと思ったのだ。樋口久子が米国から持ち帰った最大のものは、メジャー制覇の勲章や協会の制度改革など目に見える大それたものではなく、誰もが試合を楽しむ軽やかな「ゴルフ文化」ではなかったか、と。(つづく=敬称略)【編集委員=井関真】

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