新潟県勢悲願の初優勝は今年も達成できなかった。日本文理の夏が準決勝で終わった。

 勢いに乗る三重の前に0-5で完敗。試合終了のあいさつを終えると大井道夫監督(72)がエース飯塚悟史投手(3年)に声をかけた。

 「おまえ、最後に意地を見せたね。こういう気持ちがあれば伸びるよ。この気持ちを忘れるな」。

 甲子園最後のマウンドとなった8回裏。ダメ押しの本塁打を打たれなおも2死二塁。それでも1番長野を渾身の141キロ直球で空振り三振。6点目は許さなかった。

 「我慢強くなったなあ」。大井監督の目には教え子の成長がはっきりと映ったに違いない。

 飯塚は付け加えた。「監督さんには『おまえで勝負したんだから悔いはない』って言ってもらいました」。

 試合には敗れたが、監督のエースの絆はより一層深まって甲子園の夏が終わった。

試合後、大井監督(左)に声をかけられ涙を流す、日本文理・飯塚(撮影・田崎高広)
試合後、大井監督(左)に声をかけられ涙を流す、日本文理・飯塚(撮影・田崎高広)

 3回戦、準々決勝に続き大井監督の囲み取材に加わった。

 「想像以上に三重のピッチャーが良かった。相手が一枚上でした。タイムリーが出なかったね。負ける時はこんなもん。負けるのは悔しいよ。でも、やっぱり子供らをほめてやるしかない。ベスト4まで来て文句は言えない。ほめてやんなきゃ」。

 勝てば5年ぶりの決勝進出。そして新潟県勢初優勝へあと1勝。悔しくないはずはないが、孫の成長を喜ぶおじいちゃんのように選手の健闘を称えた。

 「宿舎に帰ったら選手にはこう言うつもり。おまえら本当に青春時代に甲子園を楽しんだんだよ。甲子園、応援してくれた仲間、クラスメート、先生に感謝して。この青春時代の楽しさ、悔しさを今後の人生に生かして欲しいってね。こんなにいい青春の過ごし方なんてそうないよ。満員のお客さんの中でプレーできたんだもん」。

 86年に日本文理の監督に就任して今年が28年目。自身は宇都宮工(栃木)のエースとして夏の甲子園準優勝。「現役時代、打てないチームだった。だから打てるチームを作るのが願望だった」。それでも就任当初、部員はわずか12、3人。「練習試合で1回から5回まで全員にバントの構えをさせて本当にバントばかりさせたこともある。そしたら2人生きた(出塁)。悪送球と何かで」。理想と現実の間でもがき、ようやく理想の打ち勝つ野球ができ始めたのが5~6年ほど前。「バントしない野球。見ている人に『文理は面白い野球をするぞ』って言われたな。それまで新潟の野球は塁に出ればバントだったから。でもねスクイズをやらないとは言ってない。嫌いだと言ってるだけ。ガッハッハ」。

 普段の練習は打撃7、守備3の割合。「大学の関係者が選手を見にくるけど『いつ来てもバッティングばかりやってる』って言われてね。『守備も見たい』って言うんだけど、守備だってやってるんだよ。曜日を決めて守備だけ練習する。2日は続ける」。

 5年前の09年、夏の甲子園で準優勝。決勝で中京大中京に敗れたが9回2死からの猛反撃で1点差まで迫ったことは記憶に新しい。

 5年前の準優勝、昨秋神宮大会でも準優勝。そして今回がベスト4。全国制覇に足りないものは何か。

 「1人のピッチャーだときついな。2人、3人育てないと。それは今回感じたな」。

 監督をいつまで続けるのか。

 「辞めろと言われれば辞めるけど、大井に教えて欲しいという中学生が1人でもいればやりたい。まあ、学校が簡単には辞めさせてくれないから、辞めますって言うわけにはいかんな。オレもかなりきつくなってんだけどね(笑い)」。 

 来月9月で73歳。この夏の戦いは終わったが、ベテラン監督の日本一への挑戦はまだまだ終わらない。