甲子園へ来て、蔦文也が大失敗をした。グラウンドではなく、決勝戦前夜に池田(徳島)の定宿・網引旅館で起こったことだ。

74年春のこと。甲子園は2度目の出場でセンバツは初だった。そこで決勝進出を果たした。池田は部員11人の「さわやかイレブン」で無欲の勝ち上がり。相手は地元兵庫の人気校・報徳学園となった。相手校のことは一時置いて、池田の決戦前夜のミーティングをのぞいてみよう。そこでは2本の旗のことが取り上げられていた。「センバツには旗が2本ある。どっちでもええから、旗を持って池田に帰ろう」と言ったのは、監督の蔦だった。

「あれがいかんかった。弱気じゃったな。あのときは、ああ言うた方がええと思うたんやけんど」と、蔦は後日自分を責めた。

夏の選手権は優勝校へ贈られる深紅の大優勝旗1本だが、春のセンバツは優勝校に紫紺の大旗と優勝カップ、準優勝校には準優勝旗が渡される。池田はあの春、2本の旗の「どっちでもええから」と、照準の定め方が中途半端になった。2度目の甲子園で、11人で、すでにここまで立派に戦ったと、ねぎらう気持ちもあっただろう。

では、報徳学園はどうだったか。同じ夜、西宮市の学校内にある以徳寮では、センバツ閉会式の「予行」が行われたのだという。当時主将だった渋谷渉が、その夜の様子を語ったことがある。

「紫紺の大旗をもらう練習をしていた。報徳学園、渋谷主将に、優勝旗が贈られます、とか言って。私が前へ進み出て優勝旗をいただくリハーサルだった」。その理由についても触れていた。「11人のチームには負けたくないと強く思っていたから。絶対に優勝するぞという気持ちを、そういう儀式の先取りで、たかめていこうとしていた」。

決勝戦は5回まで両校無得点。6回裏2死から報徳学園が1点を奪った。池田が8回表に同点としたが、報徳学園はその裏突き放している。その攻撃は、無死二塁で渋谷の一塁線へのバントが内野安打となって一、三塁とし、ここから2点。報徳学園は3-1で勝った。渋谷は前夜の意識付け通りに、主将として紫紺の大旗を受け取った。

この年の決勝前夜を振り返って蔦は「甲子園でいっぺん優勝してみんか」と欲を出した。そこからさらに苦戦も経験するが、今度こそ、今度こそと日本一を目指し続けることになる。報徳学園が教えてくれたものも、池田の財産となった。

池田と報徳学園は、翌75年センバツにも出場し、1回戦で対戦している。前年春の決勝から2度続けての試合。甲子園で2年にまたがって、同じ学校が戦うことは極めて珍しい。池田は2-4で敗れ、報徳学園との甲子園「連戦」は2連敗となった。

それから後、池田が春6度、夏8度、甲子園出場を積み重ねた。同じように報徳学園は春15度、夏9度も出てきている。同じ大会に顔をそろえたのは83年春、85年春、14年春だったが、対戦はなかった。池田-報徳学園は、いつの日かまた実現する。3度目に臨む池田の采配は誰が振るのだろう。(敬称略=つづく)【宇佐見英治】

(2018年3月16日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)