【ニューヨーク27日(日本時間28日)=四竃衛】ゴジラの野球人生は終わらない-。巨人やヤンキースなどでプレーし、日米通算507本塁打を記録した松井秀喜外野手(38)が、当地で記者会見を行い、正式に現役引退を表明した。ファンに向けたメッセージでは「引退」という言葉を使わず、プロ野球選手としての「区切り」と表現。今後については未定だが、将来的には単なる指導者としてだけでなく、プロアマを含めた球界全体の発展のため、さらに大きな枠組みの中で、日米通算20年間で培った経験と知識を生かしていくことになりそうだ。

 再びユニホーム姿で打席に立つことも、歓喜の中、ダイヤモンドを1周することもない。だが、新たなスタート、新たな決意をにじませる会見だった。日米約80人以上が詰め掛けた記者会見場。自ら口を開いた松井は、込み上げる万感の思いを必死に抑え、言葉を選びながらも、確かなメッセージを送った。

 「20年間に及ぶプロ野球人生に区切りをつけたいと思い、20年間応援していただいたファンの皆様に感謝の気持ちをお伝えしたいと思いました」

 現役のプロ野球選手として、終止符を打つことに変わりはない。ただ、意識的に「区切り」との言葉に気持ちを込めた。紛れもなく重大な決断でも、一野球人、松井秀喜の人生の中で、今回の転機は、ひとつの句読点でもあった。

 「皆さんから見れば引退なんでしょうけど、僕は引退という言葉はあまり使いたくないです。これからまだ草野球をやる予定もありますし、まだまだプレーしたいです」

 冗句交じりに笑いを誘うのも松井らしかったが、「引退」の言葉を使わない理由は真剣だった。今後については、現時点でまだ決めていない。将来的に指導者となる可能性についても、「もしかしてそういう縁があるかもしれませんが、現時点では白紙です」と話すにとどめ、それ以上、踏み込むことはしなかった。

 というのも、松井は常々、漠然とした将来像をイメージしてきた。指導者として後進を育成することも、大切な恩返しのひとつに違いない。その一方で、松井は野球人気の低下、野球人口の減少など、球界全体の問題を憂慮してきた。松井の故郷、石川・能美市近郊では少年野球のメンバーが不足し、複数のチームが合同で大会に出場するケースも珍しくなくなった。父昌雄さんと話すたびに、松井はそんな近年の状況に危機感を抱いてきた。

 長年、日本球界の懸念事項となっているプロアマ問題にしても、松井の意識は高い。かつて長嶋監督が退任後、すぐに甲子園へ足を運び、アマ球界に働き掛けた姿を、松井は忘れていない。垣根がなく、交流が頻繁な米国でプレーすることで、松井の認識はさらに強まった。国内だけでなく、メジャーでも知名度の高い松井だけに、野球途上国をはじめ国際的な幅広い普及活動も不可能ではない。

 「日米で10年ずつプレーした経験を、いろいろな人に、いい形で伝えていければいいと思います。高校を卒業して20年間、プロ野球の世界しか知りません。これから自分なりに勉強して、経験したものをいい形で伝えられる土台を作る時間も必要だと思います」

 現役としては、常にチームに必要とされることを大切にしてきた。この日を境にユニホームを脱ぐことになったとはいえ、松井にとっての野球は「もっとも自分が愛したもの、好きなもの」に変わりはない。その野球のために、今後も必要とされるのであれば労苦はいとわない。「区切り」の1日に涙を見せなかったのも、松井にしかできないことが数多く残っているからこそ。会見を終え、いつものように軽く右手を上げて立ち去る姿は、再会を約束するかのようだった。

 ◆松井秀喜(まつい・ひでき)1974年(昭49)6月12日、石川県生まれ。星稜時代は甲子園に4度出場(1年夏、2年夏、3年春夏)。高校通算60本塁打(甲子園4本)。92年ドラフト1位で巨人入団。96、00、02年セ・リーグMVP。ベストナイン8度、ゴールデングラブ賞3度。00年正力賞。03年にFAでヤンキースに移籍。09年ワールドシリーズMVP。10年はエンゼルス、11年はアスレチックス所属。12年は4月にレイズとマイナー契約を結び、5月にメジャーへ昇格した。大リーグ実働10年。186センチ、103キロ、右投げ左打ち。家族は夫人。