一番の思い出は師匠との素振りだった。松井秀喜外野手(38)が日米通算20年間のプロ生活の思い出として真っ先に挙げたのが、巨人長嶋茂雄終身名誉監督(76)とのマンツーマン練習だった。巨人入団から長嶋監督の勇退まで、自宅で、遠征先で行われた素振りが、日米通算507本塁打の礎を作り上げた。長嶋氏も「2人きりで毎日続けた素振りの音が耳に残っている」と振り返った。

 目を潤ませながら、松井は「あの音」を思い返していた。プロでの思い出について「いっぱいあり過ぎる」と話したあと、最初に切り出したのが、長嶋氏との特訓だった。「2人で素振りをしていた時間が、僕にとって一番印象に残っています」。507本の本塁打、ワールドシリーズのMVP以上に、師匠との濃密な時間が心に浮かんだ。

 92年のドラフトで、長嶋氏が4球団競合の松井を引き当てたところから「師弟物語」は始まった。長嶋氏は「松井をスーパースターに育てるのが私の使命」と言い、松井を3年間で巨人の、球界の4番にするため「1000日計画」を立てた。

 ひたすらバットを振る。松井は長嶋氏の自宅、遠征先、東京ドームなどで連日のように素振りした。長嶋氏は目をつぶり、松井のバットが奏でる音をじっと聞く。「ブン」という音が「ビュッ」と、長嶋氏が納得する音になるまで、気がつけば1時間近くなることもあった。松井が4番を打つようになっても、特訓は続いた。回数は減っていったものの、長嶋氏がユニホームを脱ぐまで、2人は素振りで会話した。

 松井は言う。「その後の野球人生にとって、本当に大きな礎となった出会いだったと思います。20年間の僕を支えてくれた大きなものでした」。今季途中レイズへ入団した際、背番号「55」が空いておらず「35」を選んだのも、師匠の「3」にあやかりたい思いからだった。

 引退を決意した際も、すぐに連絡した。「電話でしか話していませんが、少し残念そうでした。ただ、よく頑張った、ご苦労さんとも言われました」。松井が大リーグに旅立ったあと、「朝起きて、衛星放送で松井のホームランをみるのが楽しみなんですよ」と話していた長嶋氏。巨人を通じて、こうコメントした。

 「大好きな野球を続けたいという本心よりも、ファンの抱く松井像を優先した決断だったように思う。2人きりで毎日続けた素振りの音が耳に残っている。これまでは飛躍を妨げないよう、あえて称賛することを控えてきたつもりだが、ユニホームを脱いだ今は、『現代で最高のホームランバッターだった』という言葉を贈りたい」

 ◆長嶋監督と松井の師弟関係

 巨人監督に復帰した92年11月のドラフトで、長嶋監督が4球団競合の松井の当たりクジを引き当てたことからスタート。「ユニホームを着ている間に、もうひとりの長嶋をつくりたい」と、入団時に「4番1000日計画」を掲げ育てた。95年途中に6試合だけ4番を打たせ、計画通りに4年目の96年は開幕戦で松井を4番に起用した。長嶋監督の勇退までマンツーマンの指導が続き、東京ドームの試合前だけでなく、自宅や遠征先の宿舎でも自室に呼び、目の前で素振りをさせた。「フォームではなくスイングの音を聞くんです。いい音になったらレッスンは終わり」と話し、長嶋監督は松井の好不調をユニホームのシワで見極めることができた。渡米後も電話で打撃の調子を聞き、時には助言も与えるなど師弟関係は続いた。長嶋監督は思い出に残る松井の本塁打として、99年8月19日に中日川上からナゴヤドームの右翼最上段に放り込んだ1発を挙げている。