広島黒田博樹投手(41)が日米通算200勝を達成した。野茂英雄に次ぎ日本選手2人目。王手をかけてから2度足踏みして迎えた阪神17回戦(マツダスタジアム)で先発し、7回を5安打無失点。3回までに7点の大量援護にも恵まれ、メジャー7年を含めてプロ20年目で金字塔を成し遂げた。広島に男気(おとこぎ)復帰して2年目。25年ぶりリーグ優勝に向け、まだ白星を積み重ねる。

 115球目、代名詞でもあるツーシームで荒木にバットを振らせなかった。今季最多9個目の三振を奪い、7回無失点。勝利の瞬間を待った。史上2人目の偉業にも、黒田はいつもの黒田だった。チームメートがおそろいTシャツで祝福し、満員のスタンドは誰も席を立たずに大歓声を送った。祝福ムードにも1人、チームを勝利に導いた安堵(あんど)感に浸っていた。

 「一番はホッとしています。まだ実感はない。チームのために201勝を目指し、また明日から準備して全員で戦っていきたい。本当に最高のチームメートとファンの前で、最高のマツダスタジアムで節目の勝利を挙げられて本当に感動しています」

 あの日、黒田は泣いていた。「俺、もう野球やめます」。04年4月2日。2年連続で開幕投手を務めた夜、チーム関係者と食事の席で、口にした。泣き言のレベルではない。同日、味方に5点の援護をもらいながら、8失点の敗戦。常に強い責任感を持ってマウンドに上がる男の涙だった。

 「耐雪梅花麗」。高校時代、書道の授業で知った言葉を座右の銘とし、挫折ばかりの野球人生ではい上がってきた。初の2桁勝利は5年目。「広島のエース」として出場した04年アテネ五輪も、中継ぎ起用だった。「外のレベルの高さを目の当たりにして、それをどう受け止めて次に生かすか。アテネは自分にとっての起点になった」。翌年に初タイトルとなる最多勝。飛躍を遂げた。

 先発完投がスタイル。米国でも投球回にはこだわった。打球を頭部に受けた09年からは後遺症とも闘わねばいけなかった。試合前に「背中の骨がスレてる感じ」で首をひねることができなくても、「日本人がナメられてたまるか」とマウンドに上がった。11年から3年連続200投球回をクリア。10年は3回2/3、14年は1回足りないだけだった。

 ヤンキース2年目の13年は一睡もできず球場に向かう日もあった。気づけば、登板前は睡眠薬を服用するようになった。マンハッタンを見下ろせる超高級マンションに住んだのは、そんな自分への暗示。「あめとムチ。これぐらいのあめがないとヤンキースで、あのマウンドで投げられないと思った」と振り返る。

 日米で積み重ねてきた投球回は3291回2/3に到達した。「200勝する投手と3000イニング投げる投手の人数はそれほど変わらない。派手な活躍をして認められる人もいれば、地道に積み重ねて認められる人もいる。僕のやり方はできることをコツコツ積み重ねることにある」。

 朝起きれば、自然と体の状態を確認する。登板前には首、肩などに塩を塗り込み、マウンドに上がる。ドジャース時代から続ける「黒田ノート」は今も書き続ける。20年目も、入念な準備と勝利への渇望感は衰えない。耐雪梅花麗-。挫折を味わい、痛みに耐えた末に、200勝という名の花を咲かせた。【前原淳】

 ◆黒田博樹(くろだ・ひろき)1975年(昭50)2月10日、大阪府出身。上宮-専大を経て96年ドラフト2位(逆指名)で広島入団。05年最多勝、06年最優秀防御率。07年オフにFAでドジャース入り。09年開幕勝利。12年にヤンキース移籍。15年に広島復帰。大リーグ通算79勝は野茂(123勝)に次ぐ日本人2位。父一博氏(故人)は南海などで外野手、内野手だった。185センチ、93キロ、右投げ右打ち。今季推定年俸6億円。家族は夫人と2女。

 ◆耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し) 西郷隆盛が詠んだ漢詩の一節。梅の花は寒い冬を耐え忍ぶことで、春になれば一番麗しく咲く、という意味。ヤンキース時代、大切な言葉を紹介するミーティングでチームメートに披露。通訳されるとジーターらから拍手が起こった。LINEの黒田スタンプにも使用されている。

 ▼黒田が阪神17回戦(マツダスタジアム)で今季7勝目を挙げ、日米通算200勝を達成した。初勝利は97年4月25日の巨人4回戦(東京ドーム)で、内訳は日本で121勝、大リーグで79勝。200勝は日本で24人おり、日米通算では日本78勝、大リーグ123勝の野茂に次いで2人目。日本と日米合わせた26人の中で、大学出身は47年若林、55年藤本、57年杉下、70年村山に次いで5人目。黒田の41歳5カ月は08年山本昌の42歳11カ月に次ぐ年長到達。

 ▼黒田は34歳シーズンの09年終了時にまだ120勝。200勝達成者の中では山本昌の123勝を下回り、34歳終了時の勝利数は最少。34歳までは2桁勝利が13年間で6度だったが、35歳の10年からは毎年10勝以上して大台に到達。また、黒田は先発で199勝し、リリーフ勝利は05年10月7日ヤクルト戦の1勝だけ。1勝目から200勝目まですべて先発勝利の投手はおらず、200勝達成時の先発勝利は野茂の198勝を抜いて最も多い。

 ▼00年以降、日米通算を含め2000安打達成は24人もいるのに、200勝は04年工藤、05年野茂、08年山本昌、黒田の4人だけ。広島は4月に新井が2000安打を記録。同一シーズンに200勝と2000安打の両方が誕生した球団は80年巨人(堀内・柴田)04年巨人(工藤・清原)に次いで3度目。