プロ野球西鉄(現西武)の黄金時代に強打の内野手として活躍した豊田泰光氏が14日午後10時41分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため川崎市内の病院で死去した。81歳。引退後は野球解説者として多方面で活躍し、評論活動などが評価され、06年に野球殿堂入りを果たした。

 豊田氏は14日に容体が急変し、そのまま帰らぬ人となった。近年は施設で暮らしていたが、8日に誤嚥性肺炎による高熱で、川崎市内の病院に緊急入院。9日に持ち直したが、再び症状が悪化し、静かに息を引き取った。

 晩年は西鉄ライオンズOB会会長として、08年から14年まで実施された球団史を振り返るイベント「ライオンズ・クラシック」の開催に尽力した。私生活では認知症を患った妻峯子さんの介護を10年前から行っていた。自身も軽い脳梗塞を患う中、献身的に妻を支え続けた。

 1953年に水戸商(茨城)から西鉄に入団。1年目から遊撃手のレギュラーとなり、打率2割8分1厘、27本塁打で新人王に選ばれた。27本は当時の新人記録。鉄腕・稲尾和久、怪童・中西太の両氏らとともに「野武士集団」として、56年から日本シリーズを3連覇した西鉄の黄金時代の中心選手となった。高卒ルーキーが遠慮なくものを言い、肩で風を切って歩いた。当然、チーム内で非難の声が上がったが、ひるむことはなかった。

 それでいてチームプレーを重視した。58年の巨人との日本シリーズ。1勝3敗で迎えた第5戦。1点を追う9回裏、無死二塁で打席に立つと、自らの判断で送りバント。2死から同点打が出た。10回にエース稲尾のサヨナラ本塁打で勝ち、この後、敵地に乗り込んで連勝。3連敗からの4連勝という球史に残る奇跡の逆転劇に結びついた。この犠打は「値千金のバント」と高く評価された。

 日本シリーズでは56年に最優秀選手に選出されるなど4度の出場で通算打率3割6分2厘。最高の舞台で輝きを増した。

 63年に国鉄(現ヤクルト)に移籍し、69年限りで引退。コーチ専任でユニホームを着たのは72年、近鉄で1年だけだった。引退後は野球解説者として鋭い視点で評論し、野球界に影響を与え続けた。

 ◆豊田泰光(とよだ・やすみつ)1935年(昭10)2月12日生まれ。茨城県出身。水戸商では52年夏の甲子園で選手宣誓。53年西鉄入団。高卒1年目から遊撃の定位置を獲得。45失策するも、当時新人最多記録の27本塁打で新人王に輝く。強打で西鉄黄金時代を支え、56年首位打者。56、57、59~62年ベストナイン。62年に助監督となる。63年国鉄に移籍。68年2試合連続代打サヨナラ本塁打。69年引退。球宴出場9度。06年殿堂入り。現役時代は176センチ、82キロ。右投げ右打ち。