母校の大阪桐蔭・西谷浩一監督(48)が復活を目指す阪神藤浪晋太郎投手(23)にゲキ熱エールを送った。「ダメならユニホームを脱がないといけない。それくらいの覚悟がいる年」と叱咤(しった)激励。高校時代も信頼を失いかけた窮地からはい上がり、12年甲子園春夏連覇の主役となった教え子の復肩を願った。

 「下手投げにするか?」

 昨シーズン、休日を利用してグラウンドに顔を出した藤浪に、西谷監督はこう言った。

 「え!?」。半笑いの顔で、藤浪は見返してきた。

 西谷 本当に下にしろというんじゃない。それくらいの気持ちで何か考え方を変えないといけないんじゃないか、という話です。藤浪は笑ってましたけどね。

 17年の開幕前、藤浪の映像を見たときに恩師の期待は不安に変わった。

 西谷 体が横振りになりかかっていた。そうなったら球が抜けコントロールできない。いかに縦振りにできるかばかり高校のときもやってきたので。フィールディングもあのあたりから狂ってきた。もともと得意じゃない。悪送球からリズムを崩すところがあった。

 不安は現実になった。チームの指導を終え、携帯電話を見ると、藤浪の死球禍を知らせる知人からのメールが届いていた。

 西谷 技術的な乱れから死球を当てたりフィールディングが悪くなったりして精神的な崩れにつながり(走者に)走られる。クイックしようとしたらほどける。技術的なこと、精神的なこと全部悪いスパイラルになって修正できなくなったんだと思います。

 高校時代の藤浪に、投げない日はなかった。

 西谷 試合の前日でもシート打撃に投げたいと言ってきた。リリースの感覚が鈍い子の典型で、投げないと不安なんです。高校ではなんとなくできて、プロでも勝てていたけど、確固たるものはない中でやっていたんじゃないですかね。

 恩師は藤浪の苦悩を理解する。

 西谷 藤浪は決してエリートじゃない。どちらかというと、うまくいかない中でやってきた子が逆にうまくいきすぎてた部分があると思うんです。

 大阪桐蔭でエース格になった2年夏の大阪大会はリードを守れずに降板し、最後はサヨナラ負け。秋の近畿大会は逆転負けで、センバツ当確圏内と見られる4強を逃した。ここ一番の勝負弱さがついて回った。選抜大会は圧倒的な打力にも支えられて優勝したが、夏の大阪大会決勝は終盤、履正社の猛攻につかまった。沢田圭佑(オリックス)の好救援がなければ、負けたかもしれなかった。春夏連覇のかかる開幕を前に、藤浪の信頼は揺らいだ。

 西谷 でも甲子園までの期間、もがいて乗り越えた。今も同じような感じじゃないかと思うんです。

 3年夏の甲子園、準決勝、決勝と完封。最高の投球を最後に見せた。藤浪には逆境をはね返す力がある。

 西谷 金本監督、チームメートに、藤浪はローテーションの太い柱なんだと思ってもらえるところまでまず戻らなければ。球速とか、よくなっているものはいっぱいある。投球フォームを確立し、乗り越える精神力が必要。元通りというか元以上のものになるのか、分かれ目の年ではないでしょうか。

 逆境を乗り越えれば、今以上の藤浪になる。

 西谷 信頼を取り戻せたら「やっぱり藤浪」になる。いい方の「やっぱり」になってほしい。

 3年夏で、運命は変わった。有力視された花巻東(岩手)・大谷翔平(エンゼルス)ではなく、阪神は藤浪をドラフト1位に選んだ。甲子園の申し子への期待は重圧にもなる。

 西谷 でもそれを藤浪は背負っていかないといけない。藤浪の宿命なんです。プロですから結果がすべて。結果さえ出せればみんなの見る目も変わるし、そういう世界に生きている。ダメならユニホームを脱がないといけないと思うので、それくらいの覚悟がいる年。頑張ってもらいたいと思っています。

 来る日も来る日も投球に付き添い、手塩にかけて育てた。こんなところで終わる投手ではないと信じ、恩師は藤浪の18年を見守る。【取材・構成=堀まどか】

 ◆西谷浩一(にしたに・こういち)1969年(昭44)9月12日、兵庫県宝塚市生まれ。小学2年から野球を始め、主な守備位置は捕手。報徳学園(兵庫)から関大へ進み、3年時に全日本大学選手権準優勝。4年時は主将を務めた。93年から大阪桐蔭コーチを務め、98年11月から監督。いったんコーチに戻り、04年に監督に復帰。08年夏に西武浅村らを擁し全国制覇。12年は阪神藤浪、西武森らと甲子園春夏連覇を果たし、春夏5度甲子園で優勝。社会科教諭。