栗山日本ハムが、混戦パ・リーグを制した。優勝マジックを1としていた2日、試合はなかったが、2位西武がロッテに敗れたため、3年ぶり6度目のリーグVが決まった。就任1年目の栗山英樹監督(51)は「家族」と表現する選手たちの手で、札幌ドームのファンの前で11度宙に舞った。昨季までのエース、ダルビッシュがレンジャーズに移籍するなど下馬評は高くなかったが、3試合を残しての制覇。現役引退後21年間のブランクを選手最優先主義で乗り越えて栄光をつかんだ。

 涙は、ない。こみ上げる熱い思いをのみ込み、栗山監督は笑った。札幌ドームの大型スクリーンに西武の敗戦が映し出される。待機した三塁側ベンチで、まずはコーチ陣全員と抱き合った。マウンド後方の輪に向かうと、11度、小柄な体が軽々と宙に舞った。詰め掛けた1万5608人のファンに「北海道が1番になりました」と語気を強めて喜んだ。カラフルな紙テープに彩られた花道を、笑顔で歩んだ。

 会見では、一言一言をかみしめた。「一緒にプレーするようになって、家族のように選手がつながった。選手が一生懸命やってくれた。ただただ、感謝です。無理をさせた選手も多かった。済まなかったなぁと思います」と息をついた。開幕から張り詰めていた神経が、ようやく緩んだ。

 現役を退き21年、指導者経験ゼロで監督の職に就いた。「心配していたと思う」。周囲の不安の声も、耳に入った。だが、その経歴はハンディではなく武器とした。キャスター、解説者で培った知識は多く、深い。何より生きたのが、選手との関わり方。取材の際、常に心掛けたのが「空気になる」ということ。相手が話しやすい環境をつくり、本音を引き出す。自分の個性は消さなければいけない。全力で取り組んだその姿勢が、監督業も根本は同じだった。

 北海道9年で4度のリーグ優勝となるチームには、稲葉、金子誠、田中ら、実績豊富な選手たちがいた。やるべきことは「選手がプレーしやすい環境をつくってあげる」こと。球団には福良ヘッドコーチをはじめ首脳陣を残すよう、お願いした。コーチの指導には、一切口を挟まなかった。「何もしないことの尊さ」と表現した。

 蓄えた野球知識をフル活用し、犠打に固執せず、盗塁やエンドランを多用した。対戦相手に「迷い」を植え付け、自軍の選手をプレーしやすくさせるための策。そしてグラウンドを離れれば、徹底して“空気になった”。宿舎の食事会場に姿を見せたことは、1度もなかった。自室にこもって、夕食を取る。同じテーブルに監督が座ると、選手が気を使うとわかっているから、近づかない。同じ理由で、選手ロッカー室にも入らなかった。試合前の報道陣対応も、必ず同じ時間に受けた。「いつも同じことをしないと、『あれ?

 監督何か違うな。何かあるのかな』と不安にさせる。選手はそういうの見ているから」。自分の都合は、いつも二の次。常に選手のことを最優先に考えてきた。

 1つだけ、キャスター時代とは勝手が違う部分が、監督業にはあった。スタメン落ちや2軍降格を決断しなければならないことだ。8月12日の西武ドーム。満足に出場機会を与えられなかった鵜久森を呼び出し、降格を告げた。部屋には、おえつが響いた。選手の悔し涙ではない。そこでは、監督が号泣していた。

 ナインにも思いは伝わっていた。「選手がやりやすいように。監督がそういうチームづくりをしてくれたことが優勝への原動力」(稲葉)。負けが込んだ6月下旬には、田中が選手を集めミーティングを行ったことに「感動した」と目を潤ませた。「片思いでもいいから、すべての選手を思い続ける」。愛情は選手に届き、結束した。

 キャンプ地入りした1月31日、全選手スタッフに用意したTシャツには、胴上げのシルエットがプリントされていた。「現実になってしまうと、自分だけ夢の中にいるみたい」。眠れない日々が続いていたが、歓喜の美酒に酔いしれた。夢は、正夢になった。【本間翼】