中日、阪神で活躍した大豊泰昭(たいほう・やすあき)氏(本名・陳大豊=ちん・たいほう)が18日午後10時41分、急性骨髄性白血病のため名古屋市内の病院で死去した。51歳だった。

 楽天星野仙一シニアアドバイザー(67)も教え子の悲報に沈痛の面持ちを浮かべた。19日、仙台から移動した伊丹空港で取材に応じ「真面目すぎたかな。頑固すぎるところがあった。完璧主義者だった。4回のうち3本打っても1打席打てなかったら考えるタイプだった」と当時を回想した。

 大豊氏が88年ドラフト2位で中日入りした当初、監督を務めていたのが星野氏だった。まだ若かりしころだ。徹底的に鍛え上げ、時には鉄拳が飛ぶこともあったという。闘将とともにドラゴンズの一時代を築いた。球団職員からのし上がった不屈の向上心をあおったのも星野氏だろう。同じ勝負師として心に響き合うものがあった。

 星野氏

 俺が一番よく、話をしたんじゃないか。いまの日本人がなくしたものを持っていたね。

 星野氏にとって縁のある選手だった。広いナゴヤドームに本拠地を移した97年オフに阪神とトレードを断行。大豊氏と矢野を放出し、関川と久慈を獲得。だが、大豊氏が98年から3年間プレーした阪神を自由契約になったとき、救いの手を差し伸べたのも星野氏だ。01年に古巣中日復帰当時、大豊氏も「星野さんに育てられ、殴られてきた。厳しい野球を覚悟して優勝を目指したい」と感謝。ともに白球を追った“戦友”が逝った。星野氏はこの日の朝、訃報に接したという。「ビックリしたよ…」と無念の表情を浮かべていた。【酒井俊作】