東北ゆかりのスターたちに生い立ちやターニングポイントを聞く「わたしのツクリカタ」。宮城出身のお笑いコンビ・サンドウィッチマン編は、前回の富沢たけしに続き、伊達みきお(41)が語ります。高校時代の恩師との出会いや、お笑いの世界に飛び込む前の社会人としての経験が、今につながっていることを明かしてくれました。

 今思えば、愛情を持って育ててもらいました。父親は銀行員で、お金に困ることなくて。登山が好きな人で、近くに山がある地域によく連れていかれました。九州一周もしました。転勤族で小学校は3つ行きましたけど、人見知りもせず、転校初日に新しい友だちと遊びにいったり、そんなに頑張らなくても普通にできた。そういうところで苦労しなかったのは、育てられ方でしょうね。

 父親はNHKしか見ない人間だった。テレビゲームも買ってもらえないくらい堅い家庭だった。お笑いをやることについて最初、親は大反対だったんですけど、雑誌とか、テレビとかに出たら、少しずつ認めてくれました。お金がないとき、何も言ってないのに親から手紙が来て、そのなかに1万円が入ってたりして。両親には感謝してもしきれませんね。

 これまで人との出会いに恵まれてきましたけど、中でも高校時代(仙台商)の1、3年時の担任の梶川先生ですね。のちに仙台商の校長になられた方で、僕の結婚式でも乾杯の音頭をとっていただきました。おっかない先生で、何度もビンタされたし。何かあるたびに梶川先生には「自分だけ気持ちよくなっちゃだめなんだよ」と言われました。

 何言ってんのかな? と高校時代は思いましたけど、大人になるにつれて、実は意味が深いということが分かってきました。ノドが渇いたら、自分だけジュースを買ってくるんじゃなくて、みんなの分も買ってきなさいってこと。どんなシチュエーションにも当てはまる。SEXも一緒。そこまで先生は言ってませんでしたけど(笑い)。

 高校卒業後に福祉関係用具の会社に入ったんですが、そこの会社がまた良かったんですよ。「思いやりを大切に」というのが会社のテーマ。毎朝言うんですよ。社訓じゃないですけど、影響を受けましたね。思いやりをもって接すれば、悪く思う人はいない。梶川先生がおっしゃっていた言葉とリンクするというか、同じ意味ですよね。お笑いだって、独りよがりではだめ。相方のこと、お客さんのことを考えながらじゃないとうまくいかない。そういう意味では、今につながっていますね。

 高校のラグビー部で一緒だった富沢から、「お笑いやろう」って声をかけられたのは会社に入ったあとでした。お笑いは好きでした。見るのが好きでした。でも就職していたし、父親のコネで入ったし、度胸もない。富沢は2年ほど中学の同級生とコンビを組んでいたんですが、仙台の劇場が閉鎖されて、活動の場がなくなった。一緒に上京しようって、また誘われたんです。

 それくらいの時期にじいちゃんが亡くなった。お見舞いにいったり、入院しているときから見ていて。人っていうのはあっけなく死んでしまうんだ、好きなことをやった方がいいんだなと思った。すごく大きなきっかけだった。それで24歳の時に上京したんです。

 エンタの神様に出させてもらうまでの7年間が、我慢のしどころでした。ライブでは受けていました。10人くらいしか入らないような小さいところに出続けて、早く誰かに見つけてほしいなって。30歳までが挑戦できる年齢だろうと思っていました。30歳までにネタ番組ができなかったら解散しよう、って2人で話していた。2005年はバイトやめて、お笑い1本で、集中してやろうって。その年の5月にエンタの神様に初めて出ることができて、お笑いをやめずに済んだんです。エンタの神様に出てなかったら、そのあとのM-1の優勝もなかったですからね。

 ◆伊達(だて)みきお 本名・伊達幹生。1974年(昭49)9月5日、宮城・仙台市出身。仙台商ラグビー部の富沢たけしと、お笑いコンビ・サンドウィッチマンを結成。07年にM-1グランプリで優勝した。特技は生卵とゆで卵を見分けられること。

(4月28日付 日刊スポーツ東北版掲載)

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