ひょうひょうとした中に滋味深い演技で舞台、映画、ドラマで活躍した文化功労者、劇団民芸代表の大滝秀治(おおたき・ひでじ)さんが2日午後3時17分、肺扁平(へんぺい)上皮がんのため都内の自宅で亡くなった。87歳だった。今年2月に肺がんが見つかり、6月の主演舞台を降板し、療養していた。葬儀は近親者のみで済ませており、お別れの会を22日午後2時から東京都港区の青山葬儀所で行う。

 昨年暮れから体調不良を訴えていた大滝さんは、今年2月27日に肺がんと診断された。主治医から告知を受けても冷静だったが、手術や放射線治療を拒否。民芸6月公演「うしろ姿のしぐれてゆくか」を降板し、抗がん剤治療に専念した。

 回復の兆しが見えた6月末に間質性肺炎も併発したが、その後は病状も安定し9月7日に退院、食欲もあり、亡くなる前日1日夜もシューマイと好きな日本酒を飲んで就寝した。夜中に呼吸が荒くなったが、在宅医が駆けつけ回復。しかし、2日午後に容体が急変、妻純子さん(82)長女菜穂さん(52)次女久美さん(50)にみとられて息を引き取った。長女の夫で演出家の山下悟さん(57)は「大きく2、3回息を吸って静かに息を引き取りました。炎の塊のような人のエネルギーが消えてゆくような感じでした」と話した。

 山下さんによると、肺がんが見つかって以降、大滝さんは「病気に体をむしばまれる恐怖以上に仕事ができないことがつらそうだった」という。60キロの体重が40キロになり「誰か会いたい人いる?」と聞いても「まだいい」と答えた。山下さんは「やせた姿を見せたくなかったんでしょう」と思いやった。病床ではかつて演じた舞台の台本をそばに置き、色紙に「舞台にもう1度立ちたい」と書いた。ドラマ出演の依頼もあり、主治医に「無理です」と言われても、「12月と来年1月はロケだからな」と自分を奮い立たせた。亡くなった2日には家族に「大丈夫」「ありがとう」と繰り返した。同日には民芸公演の舞台稽古が行われたが、午前中に「今日が舞台稽古だね」と話すなど、直前まで気にかけていた。

 50年、民芸創立に参加したが、「壊れたハーモニカみたいな声だな」と演出部に回された。人手が足りなくなって俳優に戻ったが、老け顔と悪声で脇役ばかりだった。転機は45歳で主演した舞台「審判」。紀伊国屋演劇賞を受賞した。50歳で北海道の駐在所勤務の警官を描いたドラマ「うちのホンカン」に主演。52歳で「特捜最前線」に出演し、ベテランの船村刑事役で人気を集めた。その後は徹底した人物造形に年齢を重ねて渋みが加わり、テレビ、映画で貴重な存在に。除虫剤CMでのユーモラスな演技でも知られた。

 病床で本を読みあさった大滝さんが、次女の勧めで最後に手にしたのが漫画家赤塚不二夫さんの「これでいいのだ」。舞台の演技に悩み「これでいいのか」と自問を繰り返した大滝さんと真逆の生き方だが、「面白いね」「これでいいんだね」と気に入っていたという。ひつぎには愛用のセーターや鉛筆、劇団同期の奈良岡朋子が編んだマフラー、代表作「審判」「巨匠」、演じたいと思い続けた「なよたけ」の台本とともに「これでいいのだ」も入れられた。山下さんは「舞台をとったら抜け殻のような父だったけれど、最期は『これでいいのだ』と笑顔で穏やかに旅立ったと思います」と話した。

 ◆大滝秀治(おおたき・ひでじ)1925年(大14)6月6日、東京生まれ。50年に劇団民芸の創設に参加して、51年「炎の人」で初舞台。70年「審判」で紀伊国屋演劇賞。05年「巨匠」「浅草物語」で読売演劇大賞。09年「らくだ」で文化庁芸術祭(演劇部門)で大賞。映画は76年「不毛地帯」「あにいもうと」でブルーリボン賞助演男優賞。ドラマはテレビ朝日系「特捜最前線」、NHK大河「独眼竜政宗」などに出演した。88年紫綬褒章受章、95年勲4等旭日小綬章受章、11年文化功労者。167センチ。血液型O。