アフリカのガーナの首都アクラで研究中の野口博士
アフリカのガーナの首都アクラで研究中の野口博士

 ニューヨークにゆかりの深い偉人といえば、千円札の肖像ともなっている野口英世博士。日本が生んだ細菌学の世界的権威、野口博士に関する資料や記念品の展示会「Dr. Hideyo Noguchi in New York、New York」が10月29日から11月23日まで開催されました。

 ニューヨークの会員制社交クラブ「日本クラブ」が創立100周年を記念して主催したもので、展示品は、福島県の博士の故郷にある野口英世記念館やロックフェラー医学研究所から集められたもの。直筆の書簡、写真、博士が描いた絵、生家の模型、愛用していた顕微鏡、ロックフェラー研究所所蔵の博士の胸像など、貴重な品物の数々が展示されていました。会場内には、1927年に撮影された写真を引き伸ばした博士の等身大のパネルが置いてあったのですが、とても小さくて可愛らしかったです。ちなみに、身長は153センチだったそうです。

多くの人が訪れていた会場。手前に見えるのが博士の生家の模型
多くの人が訪れていた会場。手前に見えるのが博士の生家の模型

 福島県猪苗代町出身の野口博士がアメリカに渡ったのが1900年(明治33年)。1901年から27年まで、ニューヨークのロックフェラー研究所で細菌学の研究活動を行いました。実に100年以上前に、このニューヨークの地で研究者として活躍していたのかと思うと、感慨深いものがあります。

 生家の柱に「志を得ざれば、再び此地(このち)を踏まず」と刻んだ決意通り、ノーベル医学賞候補として3度、名前が挙がった博士は、初めて候補となった翌年、15年ぶりの帰郷を果たしています。しかし、研究に邁進する博士が、渡米してから帰国したのは1度だけ。その後、愛する母シカさんと再会することはついにありませんでした。1928年、黄熱病の研究を行っていたガーナで、黄熱病のため51歳で死去。ニューヨークタイムズ紙もその死を報じるほど、功績が知れ渡っていました。

ロックフェラー研究所所蔵の野口博士の胸像。同研究所に飾られているのは、創始者ロックフェラー1世と博士の胸像のみ
ロックフェラー研究所所蔵の野口博士の胸像。同研究所に飾られているのは、創始者ロックフェラー1世と博士の胸像のみ

 展示会と平行して、渡部淳一原作の小説を映画化した三上博史主演の「遠き落日」(1992年公開)の上映も行われ、会場に集まった多くの人々が感動の涙を流していました。あの時代、東北の田舎からニューヨークに出て来るのがどれほど大変だったかが身にしみてわかるので、よけい胸が打たれました。

 今の日本は安定志向になってきていて、海外留学する人も減ってしまったと聞きます。立身出世を目指し野心に燃えるなど、もはや古いとされる流れの中で、野口博士はまさに、激動の時代が生んだ偉人といえるでしょう。貧しさの中で運命と闘い、勝ち取った栄光の軌跡。そのダイナミックな人生に人は圧倒され、魅了されるのだと思います。

野口博士が愛用していた顕微鏡
野口博士が愛用していた顕微鏡

 私自身、出身地が博士の故郷に近いため、過去に野口英世記念館を訪れているのですが、こうしてニューヨークで展示を見ると、また違った感じがするものです。自分と同じくニューヨークを第2の故郷とした博士は、特別な存在。いつか、ニューヨーク郊外のウッドローン墓地に眠る博士のもとを、訪れたいと思っています。(ニューヨークから鹿目直子。写真も)

1928年5月、野口博士の死を伝えるNYタイムズ紙
1928年5月、野口博士の死を伝えるNYタイムズ紙