<金メダル日本女子バレー 選手が語った監督の素顔>

 1964年(昭39)10月10日に開幕した東京五輪から51年を迎えます。今月は4回にわたり「東京五輪メモリアル」企画を特集します。第1回は「鬼」と形容された大松博文監督(享年57)のスパルタ指導で金メダルを獲得したバレーボール女子日本代表「東洋の魔女」。ソ連との優勝決定戦のテレビ視聴率は66・8%(ビデオリサーチ調べ)を記録。大松監督の「俺についてこい」は流行語にもなりました。当時の選手への取材から、「鬼の大松」の意外な素顔に迫ります。(取材・構成 高橋悟史)

<海外深夜到着でも練習>

 大松監督の練習は容赦なかった。「守備は最大の攻撃なり」が信条で、レシーブ練習が7割を占めた。次々と投げ込まれるボールは、ぎりぎり手の届かないところに落とされた。

64年10月22日、ソ連戦を翌日に控え、河西主将(左)と打ち合わせをする大松監督
64年10月22日、ソ連戦を翌日に控え、河西主将(左)と打ち合わせをする大松監督

 磯辺(現丸山)サタ(71) レシーブ練習は10本上げたら交代。でもたいがい20~30本。時には50本くらいまで続くこともありました。コートの端から端までダーッと走ってね。これが練習序盤のメニュー。その後はレギュラー6人対控え選手とコーチ、先生(大松監督)が入ったチームとの試合。1本決まれば1点。ミスすれば1点減点。これが延々と続くんです。

 大松監督と東京五輪のメンバー12人中10人は大阪の日紡貝塚に所属していた。クラブの練習は連日、午後4時ごろに始まって同11時ごろまで続いた。

 松村(現神田)好子(73) 練習でおかしなプレーがあると、先生は「やる気がないなら俺は帰る」と言って事務所に戻っちゃう。すると主将の河西さんや宮本さんが先生のところに行って「お願いします」と頭を下げるんです。練習が再開されるのが午前2時ごろで、明け方5時まで続きました。練習後に寮へ戻る時、早朝勤務で出勤してきた一般社員とすれ違うと、「また先生を怒らせたの?」と笑われましたね。

 とにかくどんな時も練習した。海外遠征で現地に深夜に到着しても大松監督は「体育館を探してくれ」と言った。

 谷田(現井戸川)絹子(76) 海外遠征先に到着するのが深夜でも、先生は「飛行機乗っただけやろ」と言って練習しましたね。私は怒られ役。みんなが3で終わるところを、5になっても10になっても終わらへん。練習中にコート内でへたり込んだら、先生に真後ろからバケツで水をかけられてね。真冬ですよ。さすがに部室で1時間正座して泣きました。

 試合も妥協しなかった。選手の体調が悪くても、めったには休ませてくれなかった。

 磯辺 仙台から東京へ移動する時、左の下腕を蜂に刺されたんです。えらい腫れて翌日に病院行ったら「あと2、3日遅かったら腕を切断しなきゃならなかったよ」って言われました。治療で刺された周辺の肉をえぐり取ったら骨が見えた。リバガーゼっていう黄色いガーゼを詰めて包帯でフタをして翌日は試合。レシーブするのが痛くて痛くて。東京五輪前の欧州遠征では左膝の靱帯(じんたい)を伸ばして、そのまま試合してたんです。最後のソ連戦の前に先生からは「もう跳べんってところまで跳んでこい」と言われました。

 時に批判もあったスパルタ指導。しかし、海外のパワーに対抗するには中心メンバー6人を固定して、徹底的に連係を磨く必要があった。

<腹いせに足叩いたり>

 「鬼の大松」は魔女を服従させていたわけではなかった。練習で選手にボールを投げつけることはあっても、手を上げることはなかった。スパルタ指導と言われていたが、現在、問題になっている体罰指導とは決定的な違いがあった。

 谷田 先生が投げ込むボールに届かず、「なんで!」「そんなの捕れるわけないですやん」と言いながらも食らいついてましたよ。先生の足もとにボールが転がれば、拾うふりをして腹いせに「パン」て足をたたいたりして。ひどく怒られたら、体育館の外に飛び出して、夜空に向かって「大松のばかやろー!」と叫ぶんです。もちろん窓が開いてるから全部聞こえてる。戻ったら先生はニタニタ笑ってて。足をたたくのを見て、笑っている選手もいましたよ。

 松村 先生は「鬼」って言われましたけど、私はそこまでじゃないと思う。練習時間が長くて肉体的にはしんどかったけど、精神的には楽やったんです。高校時代は飲ませてもらえなかったお茶も練習中に飲めました。日紡の労組が厳しい練習に対して抗議したこともありましたけど、あれは9人制バレーの練習を屋外コートでやっていた時代の話でしょうね。腰にゴムチューブ巻いて泥だらけになってました。それを一般の社員が渡り廊下から見て「女の子にあんなことさせて」って思ったんでしょう。

 選手が監督へ「団体交渉」することもあった。怒られ役の谷田が急先鋒(せんぽう)だった。

 谷田 「必勝」って書いたはちまき巻いて、新聞持って事務所にいる先生のとこに行くんです。難波の映画館で上映予定の映画に赤い線引いて、「先生、こんな映画やってます」。「ほんで?」。「先生ほんでって、これですよ」。「ほな行く用意せえ」って感じです。決まったら体育館へ走って行って「オッケー!」って言うとみんなで映画館に行く準備を始めるんですよ。

 映画の後は難波のレストラン「蓬莱」で食事をしてデザートもほおばった。ほぼ月1回ペースで行われ、全て大松のポケットマネーだった。

 松村 先生は「ベン・ハー」や「アラビアのロレンス」が好きで、小説は時代劇が好き。でも映画なんてみんな見てません。座ってすぐに寝ましたよ。

 谷田 終われば電車で貝塚へ戻るけど、先生が自宅のある堺で降りれば練習なし。降りなければあり。電車内では「先生はよ降りや」とか言ってね。降りれば「さよなら先生、ありがとう」って手振ったもんです。

 62年にソ連で行われた世界選手権に参加した時、ボリショイバレエに招待されたが、服装をめぐって一騒動が起きた。

 谷田 先生や選手は全員ジャージー。警備員から着替えてこいって言われて。でも先生は「これがスポーツをしている人間の正装や」って譲らないんですよ。協会の人が来て交渉してやっと許可が出ました。

 海外では選手の矢面に立つこともあった。そして、バレーから離れればコート内での鬼神のような姿からは一転、選手たちにとっては頼りがいのある兄のような存在だった。

<亡き父の姿だぶらせ>

 スパルタ指導の裏側で、大松は選手の体調管理などには緻密だった。故障や体調が悪くなる選手が出ると、岸和田市にある寺田病院の白旗信夫院長のもとへ向かわせた。

 松村 連絡は取ってたみたいですね。白旗先生ともツーカーやったはずです。私が風邪ひいて午前中に病院へ向かうと、着いたらもう白旗先生は私のことを知ってるんです。病院を出て体育館に戻れば、先生(大松監督)はどんな状態か知っているくらいでした。

 東京五輪後、魔女たちの多くが引退し、大松監督も代表監督を退いた。しかし、バレーボールから離れても強い絆で結ばれた師弟の関係はずっと続いた。東京五輪後も現役を続けた磯辺は年に2、3度は大松のもとを訪れた。

 磯辺 ある日、ましな服を着て来るように言われてね。「難波にでも連れてってくれるんやろか」と思いながら、家に到着したら「ちょっと待っとけ」と言われてどこかに電話してるんです。しばらくしたら男の人がお父さんらしき人と一緒にやって来てね。お見合いだったんですよ。その方と結婚することになりました。私は幼い時に両親を亡くしたので、結婚披露宴では、先生夫妻に私の両親の席に座ってもらいました。

 松村の父も戦死していたため、大松を父の姿にだぶらせていた。

 松村 結婚した時には、主人も両親が亡くなっていたので、私には「お父さん」と呼べる人がいなかった。だからお父さんがいたらこんな感じなのかなと思ったことはありますね。

 谷田 本当に憎たらしかったなら、やめてますよ。バレーも大松先生も大好きだったんだなって思います。東京で開催されたママさんバレーの全国大会で優勝して、表彰式でメダルをかけてくれたのが先生でした。その時「下手くそがいつまでやってんねん」と言うので、こっちも「ありがとうございます。下手くそなバレー、誰が教えたんですかね」と笑いながら言い返したら、先生も笑ってましたよ。その数カ月後に先生は亡くなったので、最後のやりとりでした。

 主将の河西や宮本も結婚は大松が取り持った。大松にとってスパルタ指導に耐え続けた魔女たちは、いつの間にか家族以上の存在になっていた。練習で「鬼」と言われた大松の素顔は、実は「仏」だったのかもしれない。(敬称略)

63年6月、ハードトレーニングで日紡貝塚の選手を鍛える大松監督
63年6月、ハードトレーニングで日紡貝塚の選手を鍛える大松監督

 ◆本当の鬼は河西だった!? 当時、大松監督が練習場に現れるのは午後6時ごろで、それまでは主将の河西が厳しい練習の先頭に立っていたという。谷田は「先生は男やから、逃げが許されたけど、河西さんは逃げが許されない。先生が来たらホッとしましたね」と笑う。その河西は13年に80歳で他界。当時のメンバー12人で初めて鬼籍に入った。 

<東洋の魔女アラカルト>

 ◆落としたのは1セット 東京五輪は6チームによる総当たりのリーグ戦で全勝優勝。ポーランド戦の3-1以外すべてストレート勝ち。全勝対決となった最終戦のソ連戦も3-0で制した。メンバー12人中10人が日紡貝塚の選手だった。

 ◆東洋の魔女 初出場した60年の世界選手権(ブラジル)で銀メダルを獲得。現地メディアに「東洋の台風」と称された。61年の欧州遠征で22戦全勝し、欧州メディアから「台風は一瞬で過ぎるが、日本の強さは一過性ではない。できないことを可能にする東洋の魔女だ」と報じられた。62年の世界選手権(ソ連)で金メダルを獲得した。

 ◆最高視聴率 金メダルを決めた64年10月23日のソ連との最終戦を中継したNHKの視聴率は66・8%を記録。瞬間最高は85%に達したといわれる。これは現在もスポーツ中継の最高視聴率。ちなみに2位は2002年6月9日のサッカーW杯日韓大会の日本-ロシア戦で66・1%。

 ◆回転レシーブ 「守備こそ最大の攻撃」という大松監督のモットーのもと、転びながらボールを受けてその反動で1回転して立ち上がる「回転レシーブ」を考案。レシーブ後すぐに起き上がり、攻撃に移る体勢をつくれるように選手たちは猛練習の末に体得した。

 ◆攻撃も新兵器 おとりの選手が跳んで相手ブロックのタイミングを外す時間差攻撃を導入。当時「1人飛ばし」と呼ばれていた。セッターの後方に走り込んでアタックを打つ移動攻撃も取り入れた。セッターの河西が「後ろ」と声を出すと同時に、アタッカー陣があうんの呼吸で移動した。

 ◆大松博文(だいまつ・ひろぶみ) 1921年(大10)2月12日、香川県生まれ。坂出商業学校から関西学院大学高等商学部に進学し、日紡貝塚に入社。第2次世界大戦では、中国やビルマ(現ミャンマー)を転戦。インパール作戦の数少ない生還者。54年に日紡貝塚女子バレー部の監督に就任。東京五輪後に日紡を退社した。68年参議院選挙に立候補し初当選。74年に落選すると、バレー界に戻り各地で指導した。78年11月、心筋梗塞で57歳の若さで死去した。墓は鎌倉市の東慶寺にあり、1928年アムステルダム五輪3段跳び金メダルの織田幹雄さんと並んでいる。

(2015年10月7日付本紙掲載)【注】年齢、記録などは本紙掲載時。