<白鵬に至るSUMO道:1>

 横綱白鵬が、不滅とされていた大鵬の優勝回数を超えた。初めて外国人力士が誕生したのが34年春場所。以来184人が角界の門をたたいてきた。モンゴルからやってきた1人の少年は120人目だった。大記録達成は、それまでの先人たちが築いた礎の上にある。「白鵬に至るSUMO道」と題して先駆者たちの思いをつづる。第1回は「最初の大関」小錦ことタレントKONISHIKI(51=写真)。*************

 仕事先でよく耳にするという。「今の相撲は面白くない」「外国人ばかり強くて」。その声に、KONISHIKIは答えている。

 「それは私たちのせいじゃない。結果、そうなっただけ。自分たちは先輩に言われてきた。『悔しければ強くなれ』と。モンゴルから来て横綱になった3人は、一生懸命やったからだと思う。日本人が強くならないなら、どうしたらいいか、きちんと向き合って考えるべきじゃないかな」

 2年で体重が200キロを超えた小錦。入幕2場所目で2横綱1大関を倒して「黒船襲来」と恐れられた。革命的な強さだった。

 「当時は相撲より、相撲以外のことで苦労した。言葉や文化が違うから。でも、若い衆だったときは言われた通りにやるだけ。言葉を話す時間もなかった。部屋から逃げ出す人はいたよ。でも、それは全部日本人。外国人は誰も逃げられない。お金もないし、パスポートもオヤジ(師匠)が持っていたから、なかった」

 破壊力あるプッシュで史上初の外国人大関に上り詰めた。横綱昇進はできなかったが、今も「誇り」だ。

 「『初めて』ということに誇りを持っている。どうみても外国人で、当時は珍しいものだったと思う。でも、僕は僕の仕事をやるだけだった。責任感を持ってやっていた。自分の今も、相撲からもらったもの。いっぱい感謝している」

 「初」の礎を築き、白鵬の大記録へとつなげた1人。それは間違いない。

 「白鵬は、相撲協会を背負い、相撲に愛情を持っている。歴史が古くて深い相撲のブランドを、外国人が責任を持って守っていることはすばらしいし、うれしい。日本人、外国人じゃなくて、互いが盛り上げて倒せばいい。自分のときは千代の富士がめちゃくちゃ強かった。でも、倒すと盛り上がった。そんな暴れる相撲とりが増えれば、本当の相撲ファンは増えるよ」【今村健人】(つづく)

 ◆KONISHIKI

 本名・小錦八十吉。1963年12月31日、米ハワイ州オアフ島生まれ。スカウトされて高砂部屋で82年名古屋場所初土俵。87年夏場所後、大関昇進。89年九州場所で涙の初優勝。両膝痛などで、93年九州場所で大関から陥落。94年2月に日本国籍取得。幕内優勝3回、通算733勝で97年引退。翌年9月に退職してタレント転身。現在は相撲観戦ツアーで魅力を伝える案内役も務める。184センチ、体重は歴代最高284キロを記録。家族は妻で歌手の千絵。