「いくぞ!」。ノックはいつも、威勢のいいその一声で始まった。今夏、上宮太子(大阪)・音野峻弥(たかや=3年)は、学生コーチとして歩んだ2年半の高校野球を全うした。

2日、美原戦の試合前にノックを打つ上宮太子・音野
2日、美原戦の試合前にノックを打つ上宮太子・音野

中1の春、右太ももに筋肉痛のような痛みが続き、ある時、急に立てなくなった。骨に悪性の腫瘍ができる骨肉腫と診断された。薬の影響で免疫力も低下し、野球から離れざるを得なかった。骨肉腫にかかった組織を手術で除去し、6月から翌年2月まで長い入院生活…。今でこそ数回の手術を乗り越え、周囲と同じペースで歩くことができる。だが当時は接触プレーの危険性などがぬぐえず、12歳で選手を断念せざるを得なかった。

だが大好きな野球から離れるほど、思いは募った。裏方として支える決意で、甲子園出場経験のある上宮太子に進学した。日野利久監督(52)に一生懸命な姿を買われて2年春からノッカーを任された。右足が不自由なハンディを抱えつつ、1球1球に意図を込めた。足腰を鍛え、守備の感覚を研ぎ澄ますため、みんなのために。何百本、何千本と心を込めて打ち続けた。

集大成の1年はコロナ禍で大きく奪われた。3月上旬から3カ月間休校となり、部活動も休止。昨秋はチーム内の不祥事で府大会を辞退。新チームとして、初の公式戦になるはずだった春季府予選の中止に加え、夏の甲子園を目指す夢も閉ざされた。「このまま何もせずに引退になるのかなと落ち込みました」。それでも、自宅が近い部員同士で自主練習をやめなかった。「何かがあると信じて」。

思いは届き、大阪が夏の独自大会開催を決めた。“これが最初で最後”の公式戦。「甲子園がないからといって、気が抜けることはありませんでした」。大会ではサブノッカーを務めた。「できるだけ野手が動いて打球を捕れるように」。一球入魂で、仲間たちとの最後の夏を全力で支えた。

大阪の頂点を目指したが5回戦で大阪桐蔭に4-9で敗れ、高校野球が終わった。「大阪桐蔭や履正社を倒すことを意識してやってきた。最後負けたけど、ここまでやってこられてよかった」。持てる力は全て出し尽くした。悔いのない、すがすがしい笑顔があった。

夢ができた。学生コーチの経験を通じ「指導者になりたい気持ちが強くなりました」。大学での野球部入りを目標に、ノックバットをペンに持ち替える。「大学で野球を勉強して、目指せなかった甲子園を目指したいです」。大病、そしてコロナ禍…。何度苦難が訪れても、情熱は変わらない。大好きな野球で、夢を追い続ける。【望月千草】