パ・リーグが強くなった要因としてドラフト制とDH制の導入が考えられるが、他にも要因がある。1978年(昭53)に廣済堂クラウンライターライオンズから生まれ変わった「西武ライオンズ」の存在が挙げられる。

91年、広島との日本シリーズ第7戦で本塁打を放ちホームベースにバック転で生還する秋山
91年、広島との日本シリーズ第7戦で本塁打を放ちホームベースにバック転で生還する秋山

誕生初年度、前期(パは73年から82年まで2シーズン制)は最下位で、後期も5位に終わった。堤義明オーナーから球団強化を一任されていた根本陸夫(故人)が、強化法を探るために3年間、監督を務めていたが、82年に巨人のV9時代を支え、監督としてヤクルトを強豪チームに成長させた広岡達朗が監督に就任。潮目となった。

巨人で培った緻密な野球とハードな練習を課すだけでなく、選手個々の私生活などを厳しく指導する管理野球を徹底。監督就任の初年度には前期で優勝を飾り、プレーオフでも後期に優勝した日本ハムを破ってリーグ優勝。日本シリーズでも中日を4勝2敗で下し、翌年も巨人を4勝3敗で撃破。日本一の連覇を飾り、西武時代の幕を開けた。

監督を退いた根本はフロントに残り、現場を強力にバックアップ。球団強化策の柱は、黄金時代を築いた“巨人の血の導入”と徹底的なスカウティングの強化だった。

広岡監督の後任として、3年間ヘッドコーチを務めていた森祇晶(日刊スポーツ評論家)が85年に就任。巨人黄金時代を支えた捕手で、広岡に続いて“血”を導入している。スカウティングも他球団を寄せ付けない戦略や情報を駆使し、好素材の選手を次々に獲得した。

森監督は就任1年目からリーグ優勝し、日本シリーズも制覇。89年に近鉄がリーグ優勝したが、在籍した9年間で8回のリーグ優勝、6回の日本一を達成。野手では「AK砲」の秋山と清原、投手では渡辺久、工藤、外国人選手もデストラーデ、郭泰源など、そうそうたるメンバーで黄金時代を築いた。

巨人の独壇場だった“創生期”が終わった74年から「フリーエージェント(FA)」と高校生以外の新人選手に与えられた「逆指名制度」が適用される93年までを“中期”とすると、この期間の日本シリーズの勝敗はパが14勝でセが6勝。セでは巨人が7回リーグ優勝しているが、日本シリーズで勝ったのは2回だけ。西武は8回も日本一になっていた。衝撃が走ったのが90年の日本シリーズで、西武が巨人に4連勝。その後も日本シリーズ3連覇を果たし、野球界の覇権を握っていた。

西武のあまりの強さに対し、必然的にFA制度と逆指名制度の導入議論が沸き上がった。2つの制度が導入された93年以降、劣勢だったセ・リーグが巻き返していく。(敬称略、つづく)

【小島信行】