元巨人投手の中村善之さん(43)が、額に飾った達筆の文字を見せてくれた。

 「時乃屋」と書かれている。「ときのや」と読む。


 店の名前である。横浜市都筑区北山田に「九州うまかもん 時乃屋」をオープンし、3月18日で1周年を迎えた。

 達筆な文字は、前巨人監督の原辰徳氏が書いてくれた。


店内に掲げた数々のサインの前に立つ中村さん。中央の額に入った2つが、原辰徳氏から贈られたもの
店内に掲げた数々のサインの前に立つ中村さん。中央の額に入った2つが、原辰徳氏から贈られたもの

 中村さん(以下、敬称略) 原さんが書いてくれたんです。仁志(敏久)さんも、前田(幸長)さんも来てくれました。巨人に同期で入団した小田(幸平)も顔を出してくれます。彼とは月に1度はゴルフをします。みんな来てくれて本当にうれしいです。ありがたいですね。


 小田さんはサプライズで店に登場したという。別名で予約を取っており、突然現れた。


 中村 何て名前で予約したのかは忘れましたけど、開店祝いに駆けつけてくれたです。本当に涙が出そうになりましたよ。


 ちなみに高橋由伸監督も同期入団である。


 中村 いつか由伸監督にも来てもらいたいけど、うちは個室がないから他のお客さんが驚いてしまうかな。


97年12月、巨人新入団選手発表。左側手前から川中基嗣、小田幸平、中村善之、平松一宏、右側手前から高橋由伸、山田真介、田中健太郎、吉村将生、中央は長嶋茂雄監督
97年12月、巨人新入団選手発表。左側手前から川中基嗣、小田幸平、中村善之、平松一宏、右側手前から高橋由伸、山田真介、田中健太郎、吉村将生、中央は長嶋茂雄監督

 わずか3年間で現役を引退した後、7年間、打撃投手として球団に残った。2007年限りで退団すると、迷うことなく飲食の道に進んだ。


 もつ鍋店、焼き肉店に勤め、料理や接客を勉強した。時乃屋を開いた昨年は、飲食業の世界に入って、ちょうど10年目だった。


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 中村さんは佐賀出身で、佐賀工から社会人野球の新日鉄八幡に進んだ。だが、実は高校で野球を辞めるつもりだったという。


 中村 高校時代は肘を痛めていて、ほとんど投げていない。もともと料理が好きで、卒業後は料理の道に進もうと思っていました。


 ところが野球部長の縁があって、新日鉄八幡の練習参加を勧められた。ここで当時監督だった萩野友康氏に認められた。

 萩野氏は土佐高、慶大、新日鉄八幡で活躍した投手で、指導者としても日本代表のコーチを務めるなど手腕を発揮した。ちなみに1972年のドラフトで広島に3位で指名されたが、拒否している。


 中村 セレクションも終わった時期でした。萩野さんに「うちにおいで」と言ってもらった。私がプロに行けたのは萩野さんのおかげなんですよ。


 新日鉄八幡の同期には西日本短大付で日本一に輝いた森尾和貴投手がいた。1992年夏の甲子園で、5試合のうち4試合を完封した。失点わずか1という快投を演じた投手である。


 中村 彼には負けたくないという思いはありましたね。


 萩野監督の教えで、野球ノートに必ず毎日「プロ野球に入る」と書いた。毎日、自分の目標を確認して臨んだ。入社直後は肘のリハビリが中心だったが、次第に頭角をあらわしてきた。


 中村 5年目は九州選抜にも入って、プロのウエスタンリーグとの対戦で4者連続三振を奪った。これでプロの目に留まった。私は運がいいんですよ。巡り合わせがよかった。


 1997年のドラフト会議で巨人から6位指名を受けた。将来への不安はあったが、幼い頃からの憧れだった世界へ飛び込んだ。

 最大のチャンスは2年目だった。忘れられない1球がある。


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 2年目の99年3月7日。巨人は北九州で日本ハムとのオープン戦を戦った。

 先発の斎藤雅樹投手が3回を無失点に抑えると、2番手で中村さんがマウンドに上がった。


 中村 斎藤さんの後ですよ。ファーストは清原さん、セカンドは仁志さん、サードは元木さん、ショートは川相さんでしたね。


 先頭の片岡篤史選手に右前打を許した後、田中幸雄選手を迎えた。カウント3ボール2ストライクに追い込んだ。その後の球だった。


 中村 フォークボールを投げました。スイングに見えて…投げた自分では「よしっ、三振だ」という感覚でした。でも、審判はスイングしていないという判定でフォアボールです。結局その後で点を取られました。


 この回を投げきったものの、2安打2四球で2点を失った。


 中村 この日のうちに2軍に落ちました。あれが三振だったら、そのまま1軍に帯同できたかもしれない。またチャンスをもらえたかもしれない。1球の重みをしみじみと感じました。


イースタンリーグで投げる中村善之投手(2000年)
イースタンリーグで投げる中村善之投手(2000年)

 1軍で登板する機会はないまま、00年限りで戦力外通告を受けた。腰、膝などの故障にも悩んでいた。


 中村 今思えば…ですけど、プロ入りが目標になっていたのかな。達成感があって、次の目標がなかったかもしれない。1軍でという気持ちが弱かったのかな。ハングリー精神が足りなかったかもしれない。もちろん、その時は頑張っていましたけどね。


 その後は7年間、打撃投手として球団に残った。07年に33歳で退団した。


 中村 現役は3年と短かったけど、巨人には計10年間いました。よく面倒を見ていただいたという思いですね。


 野球界から飛び出したが、迷いはなかった。高校時代から好きだった料理の道を選んだ。

 最初に勤めたのは、恵比寿のもつ鍋店だった。


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 営業は深夜に及ぶため、仕事が終わると終電がなかった。始発が出るまで店で待機したり、仲間とラーメンを食べて時間をつぶした。午前5時過ぎに電車に乗って帰宅の途についた。


 中村 自宅に着くと朝の7時ごろです。家族が起きて朝食を食べる時間ですよ。それから寝て昼の12時に家を出る。そんな生活でした。10キロぐらいやせて、体調を崩してしまいました。


 1年半ほどで辞め、次は焼き肉店などを経営するフードリムという会社に入った。

 川崎、横浜市都筑区牛久保、渋谷と3店舗を経験した。一般社員から料理長、店長と責任も重くなった。


 中村 牛久保の店は食べ放題だったから、5時間ぐらい肉を切りっぱなしでね。包丁ダコができたこともあります。でも、いろいろなお客様と出会えて、財産になりました。渋谷ではカウンター越しに料理したので、接客も学びました。7、8割は外国のお客様でしたが、お勧め料理など営業トークぐらいは英語でやりました。この経験は今に生きていますね。


 横浜市都筑区で働いていた頃、近所のソフトボールチーム「すみれブルズ」にスカウトされた。入団し、日曜日の早朝にプレーした。


 中村 ソフトボールだからできるかなと思ったんですけど、やっていると楽しいです。最初勝てなかったけど、優勝も経験しました。


 飲食業にも慣れ、仕事は軌道に乗っていた。


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 2016年の秋ごろ。店員と客として知り合った方から電話をもらった。「一緒に店をやらないか」という誘いだった。


 中村 それが時乃屋のオーナーです。もう、その日のうちに「やりたいです」と返事しました。会社を辞めて準備を始めました。


横浜市都筑区にある「時乃屋」の前に立つ中村さん
横浜市都筑区にある「時乃屋」の前に立つ中村さん

 翌17年3月18日に「時乃屋」をオープンした。以前から同所にあった店をリニューアルする形だった。


 中村 自分で店を開くとき、名前は「塁(るい)」にしようと決めていたんです。でも、以前から「時乃屋」という名は地域で親しまれていたから、店名は残すことになりました。


 メニューには、もつ鍋、地鶏など、生まれ故郷の九州料理が並ぶ。


 中村 もつ鍋と地鶏は絶対にやりたかったんです。


 オープンから1年が過ぎ、軌道に乗ってきた感触は得ている。


 中村 もっと知っていただいて、定着させたいですね。まずは、それが第一です。ただ、その後の目標もあります。焼き肉店も開きたい。8年間やってきましたしね。来年中には何とかしたいなと。その時は「塁」という名前をつけるつもりです。今はそれが目標です。


 プロ野球に入った時は「次の目標がなかった」と言っていた。プロ入りで「達成感を得てしまった」と。今は次々に目標を口にする。


 中村 目標の大切さは感じています。勉強会を開いたり、「7つの習慣」という本を知っていますか? 今はそれを読んでいます。


 取材を終えたのが午後4時40分。スタッフは同5時の開店に向けて準備を進めており、料理のいい匂いが漂い始めていた。カウンターに並んでいたお酒にも、実は目を奪われていた。

 今度は営業時間に来よう。そう思いながら、店を後にした。【飯島智則】


メニューやボトルケースの前に立つ中村さん
メニューやボトルケースの前に立つ中村さん