1度見たら忘れられないシルエットだった。2度目の甲子園となった1978年(昭53)夏。能代(秋田)の高松直志投手は、右足を高々と上げるフォームと快速球で、全国の野球ファンに鮮烈な印象を残した。1回戦で、翌年に春夏連覇する絶頂期の箕島(和歌山)に0-1で惜敗したが、そのダイナミックなフォームはいまでも語り草になっている。

78年8月、能代対箕島 ダイナミックなフォームの能代・高松直志
78年8月、能代対箕島 ダイナミックなフォームの能代・高松直志

 高松のすごさは、この試合唯一の失点に表れている。1回裏、箕島の先頭嶋田(元阪神)の打球を中堅手が目測を誤るなどして無死一、三塁。3番石井雅にスクイズを決められた。石井雅は卒業後、巨人にドラフト3位指名で入団した強打者だった。

 高松 まさか一番いいバッターの時に仕掛けてくるとは予想していませんでした。スクイズがあるとしたら4番の時かなと。

 2回以降無失点で、4回から8回まではパーフェクト投球。名将・尾藤監督の眼力がなければ、箕島は負けていただろう。

 高松 1、3番だけ注意すれば1、2点には抑えられるだろうと思っていました。同点に追いつけば勝てると思っていましたが。(箕島は)野球をよく知っていましたね。

78年夏1回戦のスコア
78年夏1回戦のスコア

 176センチの身長より右足を高くあげ、両手はさらに天を突く。1度見たら忘れられないダイナミックなフォームは、甲子園での屈辱から生まれた。

 高松 2年の夏に1回戦で負けて(2-10高崎商)帰ってきたあと、太田監督(当時)から「もう少し足を上げてみたらどうか」と勧められたんです。バランスをとるために手も上げるようにしました。そうしたらいいボールが行ったんです。秋には4、5キロは速くなっていたと思います。

 もともと足腰には自信があった。中学時代には陸上短距離の全県大会に出場し、100メートル11秒9。バレーボールも得意で、専門の部員相手にアタックを決めていた。

 高松 あのフォームにしたら、なぜか右打者のアウトコース低めへのコントロールが良くなった。その球でカウントを稼げることになったことが大きい。スピードですか? 140キロ台の後半くらいは出ていたと思います。

 3年夏の県大会では39回を投げ62奪三振。相手はセーフティーバントなどでかき回そうとしてきたが、「空振りかファウルでした」というほどの威力だった。

 1回戦敗退ながら、甲子園大会後の高校選抜に選ばれ、南陽工の津田(元広島)とダブルエースと称された。プロからも注目されたが、「社会人からでも遅くない」と、卒業後は電電東北(現NTT東日本)に。1年目は都市対抗に出場も、その後スランプに陥り、5年目に打者に転向、26歳の時に一線から退いた。

 高松 少しずつフォームが崩れていって、3年目にはおかしくなっていた。筋肉のバランスなんでしょうね。

 ダイナミックなフォームだからこそ、体の成長や加齢による影響を大きく受けたのだろう。

 高松 あのとき(高校2年秋から3年夏)は、たまたま体の成長とあのフォームが合っていたんでしょうね。今でも一番いいバランスだったと思います。

 現在54歳。秋田市内にあるNTT関連の財団法人で要職に就いている。あのフォームを見せてくれませんか、と頼んだら「いや、もう無理ですよ」と笑った。(敬称略)【沢田啓太郎】