その名の通り、謙虚な人柄がにじみ出た1発だった。花咲徳栄・菅原謙伸捕手(3年)が明石商の本格派右腕・中森俊介投手(2年)から7回、公式戦初本塁打を放った。

肩口からの変化球が、体に当たった。しかし、菅原は一塁へ向かわない。「少し前かがみでよけてしまった。あれは自分が悪い」。心配してくれた球審や捕手に謝り、明石商ベンチにもヘルメットのひさしに手を添えてペコリ。直後のストレートを左翼席へ運んだ。「神様が打たせてくれたのかもしれません」。げんをかつぎ、バットは塩で清めていた。

強力打線において、9番に固定される。4割前後が当たり前の強力打線で、1人だけ打率が低い。たまに練習試合で本塁打を放てば「奇跡だ」と数日間、ネタにされたりもした。試行錯誤の末にたどり着いたノーステップ打法が、思い出の一撃をかっ飛ばした。

岩手・一関市出身。小学校時代には大船渡の最速163キロ右腕・佐々木朗希投手とも対戦した。少年野球県大会の開会式で隣り合った。たくさん話し、たくさんいじったら「当時は自分、投手だったんですけれど、試合で特大の本塁打を打たれました」と笑う。佐々木も今の菅原の写真を見ただけで「菅原謙伸ですね」と分かるほど、印象に残る存在のようだ。

母・富久子さんは岩手・陸前高田市の出身。実家は佐々木家ともほど近い場所だった。11年3月の東日本大震災の大津波で被害を受けた。菅原も多くの親族を亡くした。「地元のいろいろな思いを背負って、頑張りたいです」と神妙な表情で話したこともある。

埼玉の強豪校にやって来て、練習についていけず辞めたくなったこともある。それでも「東北人の粘り強さで続けてこられました」と振り返る。何かいいことがあれば「○○さんのおかげですよ」と笑顔で感謝を伝えられる好青年だ。

物腰が低く、自己主張も少ないから、例えば井上朋也外野手(2年)からは「新チームが始まったころから、おれが引っ張っていくというより、誰かに付いていくような先輩だった」と見られていた。

9回2死。その井上が、最後の打席へ向かう菅原に近寄ってきた。「今まで苦しい思いをしてきたんだ。こんなところで負けるな!」。あえてタメ口で、強い言葉で励ましてくれたことは分かった。右飛でゲームセット。「井上や中井や、2年生が自分たちのためにいっぱい涙してくれて、うれしかった。またここに戻ってきてほしい」と優しい表情で話した。

岩井隆監督(49)は「あえて1人に絞るなら、この夏のキーマンは菅原」と話していた。弱気にならず、投手陣をしっかり引っ張った姿は、監督や仲間の目にもしっかり映ったはず。フェアプレーを貫いての本塁打も、高校野球ファンの心に響いたはずだ。「人生で一番の試合ができました」。すがすがしく、高校野球に別れを告げた。【金子真仁】