日刊スポーツは「素顔の元イチロー」と題し、引退発表したマリナーズ・イチロー外野手(45)の緊急連載を開始します。筆者はオリックス時代の担当で長く取材を続ける高原寿夫編集委員と、大リーグで取材を続ける四竃衛記者。取材などを通じて知ったイチローの人間性を伝えます。

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現役ラストゲームを終えて臨んだ21日の引退会見。こんな質問に特に表情を和らげ、イチローは話し始めた。現役引退を受け、神戸に恩返しはあるか-。

イチロー 神戸は特別な町です。僕にとって。恩返し…。何をすることなんですかね。僕は選手を続けることでしかできないと思っていて、できるだけ現役を続けていたんですよね。神戸に恩返し…。税金を少しでも払えるように頑張ります(笑い)

愛知県西春日井郡出身、高校も愛工大名電で好きな球団は中日ドラゴンズだった。しかしオリックスに入り、初めて移り住んだ神戸の街がことのほか気に入った。

風光明媚(めいび)でおしゃれ。街行く人々もなんとなくハイセンスだ。食事もいい。同じ関西で大阪でもなく京都でもなく、イチローは神戸のファンになった。合宿所「青濤館(せいとうかん)」から球場まで前輪の泥よけに「鈴木一朗」と書いた自転車で通ったこともあった。

「青濤館」の最寄り駅は神戸市営地下鉄「総合運動公園」。そこから歩いて歩けない距離ではないが夜など少し遠く感じる。三宮から乗って、1つ手前の「名谷駅」で降りてタクシーを使うのが一般的だった。その名谷駅で客待ちをしているタクシー運転手に以前、こんな話を聞いた。

「若い人が乗ってきてね。ボク、誰か分かりますか? と聞いてくるんですな。行き先がオリックスの寮やし、選手かなと思ったけど知らんもんは知らん。そう言ったら『ボク、鈴木一朗と言います。有名になるから覚えていてくださいね!』と笑って降りていきはりましたわ」

今からは考えられないが20歳前後の若者らしい意気込みが考えられる話だ。

そして94年、史上初の200安打超えでブレークしたが翌95年1月17日に阪神・淡路大震災が襲う。イチローも合宿所で被災。動いていた西行きの新幹線で福岡へ向かい、飛行機で名古屋に戻った。

仰木監督の下、「がんばろう神戸」で優勝目前だった9月。地元4連戦で1つでも勝てば胴上げだったがまさかの4連敗。記者に囲まれたイチローは「神戸のみなさんに申し訳ない」と涙を浮かべた。

そんな神戸に別れを告げ、00年オフに海を渡ったがオフには必ず戻り、自主トレを行った。その神戸で「現役を終えるおそれも感じていた」と21日に話したが野球の神様はそれをさせなかった。神戸は野球同様、いつまでもイチローにとって愛する対象のままだ。次に戻ってくるときはどんなタイミングだろうか。【高原寿夫】