ブレーブスなどで23年間プレーし数々の偉業を遂げた歴代屈指の打者、ハンク・アーロン氏が22日、86歳で死去した。複数の米メディアが伝えた。

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偉大な打者という以上の存在だった。野球界のみならず、歴代の大統領、各界著名人らもこぞってアーロン氏の死を惜しんだ。

1934年、アフリカ系米国人に対する差別が特に激しいアラバマ州で、貧しい家庭に生まれた。少年時代は、ぼろ布などで手作りした道具で野球を続け、実力で道を切り開いた。マイナーリーグ時代には、観客から差別的な嫌がらせを受けることも日常茶飯事だったという。

差別の根深さを、身をもって体験したのは73年、ベーブ・ルースが当時保持していた歴代最多本塁打記録714本にあと1本と迫った状態でシーズンを終えたときだった。白人のルースの記録を抜くことをよしとしない人々から脅迫や殺人予告、家族の誘拐予告といった手紙が、毎日何千通と届いた。

74年4月8日のドジャース戦でルースの記録を抜いたとき、世界が一変した。

客席でスタンディングオベーションが起こり、敵も味方も、黒人も白人も、全員が偉業達成を喜び、歴史的瞬間に心を震わせた。アーロン氏が塁を回る間に同氏の肩をたたきながら一緒に走った2人は、客席から飛び降り侵入してきた17歳白人のファンだったという。アーロン氏は後にその試合を振り返り「アメリカという国の真の姿を、初めて見た気がした」と語っている。

公民権運動により差別が撤廃された60年代以降も、アフリカ系米国人選手は差別と闘いながらプレーしてきた。「彼は唯一の、第2の父だった。男としてどうあるべきかを教えてくれた」と悼んだアストロズのダスティ・ベーカー監督(71)から、現役時代に経験した差別について直接聞いたことがある。「私がチームにいることを嫌がる同僚もいた。『黒人だから嫌なのか』とあえて相手に真正面から聞いて、向き合った」と話していた。

アーロン氏には球場で何度かお会いし、囲み取材に加わらせていただいたことがある。気さくでユーモアのある、高潔な人柄という印象だった。最後に公の場に姿を見せたのは、今年1月5日、人々の手本になろうと新型コロナウイルスワクチンを率先して接種したときだった。

米国は、生前に「自分以外に心酔するただ一人の男」とアーロン氏を評したムハマド・アリ(ボクシング)やビル・ラッセル(NBA)に匹敵する、平等と多様性の大きな象徴を失った。【水次祥子】