CS勝ち抜いて、日本一の夢かなえてくれ! 10日の今季最終戦(甲子園)で引退登板、セレモニーを終えた阪神安藤優也投手(39)が、日刊スポーツに手記を寄せた。プロ16年間を支えた抜群の制球力をいかに磨いたか。そこには先発、救援で活躍した通算77勝右腕の妥協なき姿勢があった。投手としての理想を追求した野球人生。家族、恩師、同僚…。多くの人々に感謝の気持ちをつづった。

 

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 憧れの甲子園で最後のマウンドは、たくさんの「安藤コール」をいただきました。うれしかった。それ以外の言葉はないですね。プロに入ってなかなか試合で楽しむことがなくて、緊張しましたけど最後はマウンドを楽しめたと思います。

 プロで先発8年、リリーフ8年…。両方を経験して優勝できたのは僕のなかで財産です。16年間は毎年、常に不安でした。僕のような投手は毎年、何かをレベルアップしていかないといけない。変えていく怖さもあるけれど、恐れずに、変化を求めていく。それが僕にとっての向上心です。

 球の握り方も、その1つです。「フォークは、どうやって握りますか?」。プロに入って間もない頃、同僚だった伊良部秀輝さんに聞きました。大リーグでも活躍した剛腕投手の話は想像していない内容でした。

 「縫い目の『山』で掛けるか『谷』で掛けるか。これで落ち方が3ミリ違う。3ミリをよく考えてみろ。バットの芯から3ミリ外れたら、大きな違いやろ」

 ミリ単位の話でした。球は斜めに縫い込まれ、向きによって「山」にも「谷」にもなる。この話を聞くまで、僕は縫い目の向きに無頓着でした。伊良部さんはあんなに球が速いのに、これほど繊細でした。3ミリなんて見た目は全然、分からない。でも、プロはそういうところで大きく変わる。

 それから指を「山」で掛け「谷」で掛け、一番合う感覚を探した。縫い目を見て、グラブにセットするようになった。よく「投げる前、絶対、球を見ますよね?」と聞かれる。「谷」になるよう確認しているんです。僕は制球が生命線。勉強になった考え方でした。 プロ入り時の星野仙一監督に学ぶことも多かった。03年6月1日、東京ドームの巨人戦。ジェフ・ウィリアムスが9回、高橋由伸さんにサヨナラ本塁打を打たれた試合後、バスが宿舎に戻った瞬間、何かを蹴る音がする。監督でした。「安藤と吉野!! 今日は朝までビデオ見とけ。今日の試合、お前らで負けたんじゃ!!」。その日は無失点。最初は、なぜ怒られたか、分かりませんでした。スコアラー室に行って試合のビデオを見た。監督が言いたいのは「しわ寄せ」です。7回、吉野誠が安打を浴び、僕が四球を与える。8回も3者凡退できず、本来、最終回のジェフの救援を仰いだ。継投がずれて、9回先頭を左打者で迎えられない。野球はチームスポーツ、流れだと教わった。

 16年間で、苦しいシーズンもあった。右肩を痛めて07年は半年投げられない。10年は減量して失敗し、11年はまた右肩痛…。なかなか治らず、実は肩は「手術対象」でした。いろんな病院に通い、それぞれ診断が違う。手術、保存してリハビリという意見が半々。それほど原因が分からない。「リハビリで行けるよ」。そう話してくださったのは大学の頃から見てもらっていた先生です。治す自信はあったけど、不安と戦っていただけに、その言葉を信じて、前を向けました。

 法大4年時、春は球速130キロで、秋も最速140キロくらいだったから社会人野球やプロは無理と思っていた。トヨタ自動車だけでなく地元大分の企業から内定をもらっていた。僕の気持ちは「6対4」で大分でした。長男だし、故郷に帰らないと…。安定か、夢か…。そんな時、妻に言われた。「5年後、10年後、どう思うかな? 後悔しない?」。ありがたい言葉でした。「後悔する」と感じました。挑戦したことで、その後の人生がよりいいものになっていくのだと思いました。家族、友人、恩師、同僚、そして、世界一のファンの方々、支えてくださり、ありがとうございました。自分の力を出し切って走り抜くことができました。(阪神タイガース投手)