歓喜のVに沸いた「今年のソフトバンク」の中で、苦しみ続けた男がいた。今季限りで退団した松坂大輔投手(37)は、3年12億円の大型契約で日本球界に復帰したが、右肩痛のため3年間で1軍はわずか1イニングしか登板できなかった。球団からは、来季は支配下登録を外れてのリハビリ継続を打診されたが、松坂は退団することを選んだ。

 球団からの退団発表は11月5日だった。その後も数日間、松坂は福岡・筑後市のファーム施設に姿を見せた。誰もまだ来ない早朝に、ひっそりと汗を流し別れを告げた。

 3年契約が終了し、球団の結論は来季の戦力外だった。ソフトバンクは3軍制を敷き、20人以上の育成選手を抱える。3年間投げられず、来季も不透明な37歳に70人の支配下枠をこれ以上使うわけにはいかない。06年希望枠で入団し通算52勝を挙げた功労者の大隣にも戦力外を通告した。松坂と契約を延長するわけにはいかなかった。

 球団は「無期限リハビリOK」を松坂側に提案していた。ある球団首脳は「松坂には思う存分、納得いくまでリハビリを続けてほしかった。それにはカズミ(斉藤和巳元投手)のような形がベストだと考えた」。育成選手または「コーチ」という仮の姿になり、復活するまで筑後のファーム施設を自由に使っていいという条件だった。工藤監督も松坂と電話で話した。「投げられるようになったらすぐにまた登録できるような提案も球団はしたんだけどね」。提案は受け入れられなかった。

 08年に右肩を手術した斉藤は11年からコーチの肩書で2年半、合計5年半のリハビリを続けたが1軍マウンドに復帰することはなかった。それでもリハビリにはいい環境だった。しかし、松坂にとっては、支配下枠から外れることは、その球団からの戦力外通告としか受け取れなかった。

 見守ってくれていた斉藤学リハビリ担当コーチは「最後は140キロくらい投げられるまで戻っていた。あれなら試合で投げられる。あの状態が続けばいいが」と、11月初旬の松坂の状態に可能性を感じていた。15年にメジャーから戻ってきた松坂は、上半身に頼った米国流の投げ方に変わっていた。変化球はよく曲がるが、右肩への負担は大きい。股関節の状態もよくなかった。3年間、春先に故障して1年を棒に振るパターンを続けた。球団内には右肩や下半身への負担が少ない投げ方へのフォーム改造やモデルチェンジをもっと早くしておけば、今はもっと違った姿で結果も残していたかもしれないという声もある。

 つらい3年間だった。西武時代からの親友・帆足和幸打撃投手(38)は、休日にゴルフに誘うなどストレス解消に努めた。退団が発表された後も鶴岡、川島らとさよならゴルフを開催した。帆足打撃投手は「苦しくても治療施設を回ったりリハビリを続けた。野球に対する姿勢は素晴らしい。筑後で姿を見た若手へのいい影響もありました。あのゴルフの日も『体は元気だから、台湾でも韓国でもどこでも野球をやるよ』と明るく言ってましたよ。右肩もいい感じって言っていたし、続けてほしいですよね」と話した。

 退団時に松坂は球団を通じ「いくら言葉にしても足りないくらいの感謝の思いを伝えるのは1軍のマウンド」とコメントした。松坂は来季の支配下登録をかけて中日の入団テストを受ける。状態の良さから取り戻した自信が、ソフトバンクからの「無期限リハビリOK」を断った。【石橋隆雄】