阪神ナインの原点、足跡をたどるシーズンオフ企画「猛虎のルーツ」。第7回は、2年連続のゴールデングラブ賞を受賞した梅野隆太郎捕手(28)です。

昨季はプロ野球新記録となる123補殺を樹立。名捕手の道を歩む梅野は、母校・福岡大の歴史を変えるほどの選手だった。恩師で同大元監督の樋口修二氏(68)が当時を明かした。【取材・構成=磯綾乃】

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阪神の選手会長を務める梅野は、ずばぬけたリーダーシップで福岡大の歴史を変えていた。それは3年生での主将就任だ。本来は最上級生に与えられる役割だが、野球部史上初めての出来事だった。元監督で恩師の樋口氏は熱っぽく当時を振り返った。「僕が決めました。技術でも上にいる。まとめる力でも上にいる。違う子でやって梅野は納得するか、と」。上級生の反発はあったが、その上で決断させる魅力が梅野にあった。

3年生主将は、重圧と闘いながら、チームが強くなることだけを考えた。「今日の練習は実戦形式にしましょう」「サインプレーをしましょう」。当時の指揮官である樋口氏に、積極的に進言。野球に真剣に取り組む選手には、梅野も正面から向き合った。「梅野さん、また教えてください」。次第にそんな選手が増えた。野球に対する情熱で主将の座を確立した。

実力も申し分なかった。樋口氏は一目見て、その才能にほれ込んだという。梅野は片手1本でバットを振り切ると、打球はバックスクリーンの上を越えていく。そんな特大の本塁打を同氏は2度も見た。練習後のミーティングでは、一番前に座り、監督をじっと見つめた。「本当に必死になって見てる姿が印象に残っています」。グラウンド外でも手を抜かなかった。

梅野が入学した当初、福岡大には野球部専用のグラウンドがなかった。授業が終わればバスに乗り込み、グラウンドを転々とした。練習は1日約3時間半に限られる。「(梅野は)練習とか生活にはすごく厳しかったです。結構ストイックかもしれない。あの子は野球をするために福大に来ているから、野球をいいかげんにするのは嫌いでした」と樋口氏は言う。恵まれない環境で腕を磨いた。

梅野は1年春のリーグ戦からDHで出場。その秋からは捕手として起用された。主将就任と同様に、下級生の主戦捕手に、主力投手からは「梅野とは合わない」という不満が出たが、樋口氏は信念を曲げずに起用した。期待に応えるように、梅野は舞台が大きくなるほど、力を発揮。1年春、2年春の全日本大学選手権では1試合3安打3打点を記録するなど、2年生で初めて大学日本代表に選出。結果を残すことで、周囲の不満をねじ伏せた。

梅野の存在は指揮官の考えさえも変えたという。「ウメが入って、僕の野球が変わってきたんですよ」と振り返る。梅野が結果を残したことで、下級生を積極的に登用。梅野の代は3人、次の代も3人が、1年生から戦力になった。年に2回の関東遠征を始めたのもこの時からだった。亜大、法大、創価大…関東の強豪校と次々に練習試合を組み、夜は必ず東京プリンスホテルに宿泊した。梅野がいた4年間で6度の全国大会に出場。全国レベルの経験を積む中で、環境に慣れる大切さを知ったからだった。

「野球の差じゃなくて、そういうところの差。自然にとことんやれば、持ってる力が出せると。全国で勝たなきゃいけない、というように変わっていきましたよね。それを本当に実現するようにしてくれたのは、ウメです」。福岡大は現在、野球部専用の人工芝グラウンドで練習に励む。大学時代に周囲の意識や歴史を変えていったように、次は阪神の歴史も変えていく。

◆樋口修二(ひぐち・しゅうじ)1951年(昭26)12月8日生まれ、福岡市出身。74年から柳川商(現柳川)でコーチを務め、九産大九州で教員を経て、05年から15年まで福岡大監督。現在は福岡大が所属する九州6大学連盟で理事を務める。