日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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日本が高度成長の安定期に入った1970年代後半、社会では「窓際族」というフレーズが流行語になった。中間管理職にあったサラリーマンが閑職の窓際に追いやられる社会の世相を反映した造語だ。

“花の東京”を本拠にしたヤクルトは、50年の球団創設(当時国鉄)から万年Bクラスに低迷を続けるチームだった。その弱小組織を強い信念のリーダーシップで頂点に導いた監督がいた。

78年10月4日の中日戦に9-0で大勝したヤクルトが、球団創設29年目で初優勝を果たした。神宮球場の夜空に、背番号71をつけた指揮官が実に14回も宙に舞った。

その男が広岡達朗だった。盟主巨人を追われ、広島で監督だった根本陸夫のもとでコーチとして仕えた。ヤクルトで76年に途中休養した荒川博に代わって、ヘッドコーチから監督に昇格する。

「巨人に入団してずっと感じていたのは、全体的に技術が優れてもうまくいかないのは心の問題ではないかと思うようになった。野球界には能力をもっている選手はいっぱいいる。でもそれをいかに生かすか。おのれの力を気づかせてくれる、能力を発揮する手助けというのは大事です」

広岡は43年前の歓喜を「チームワークの勝利だったが、チームワークを作るまでにはものすごく時間がかかった」と振り返った。広岡の指導方針は「管理」「海軍式」とうたわれた。そして“氣”を野球に持ち込んだ。

巨人の名遊撃手だった広岡は早大の先輩にあたるコーチの荒川博に「心身統一合氣道」を創見した藤平(とうへい)光一を紹介された。本人は先に思想家・中村天風に影響を受けていた。合気道の開祖・植芝盛平と中村の流れをくんだのが藤平だった。

「中村先生は心が体に大きな影響を与えていることを説きました。身長160センチもない光一先生が世界中で大きな人たちを投げてきたのは、相手の体ではなく心を導かなければならないという教えです。荒川さんも氣の使い方を打撃指導に生かそうとしたのでしょうね」

藤平に師事した1人に王貞治(現ソフトバンク球団会長)がいる。一本足打法の打撃開眼にこの教えは深く関わった。また大毎オリオンズの元祖安打製造機だった榎本喜八も通い詰めた。

藤平光一の息子で、心身統一合氣道会を継承した会長の信一(47)は、米大リーグのドジャースでも現地で指導をしている。信一は「広岡さんは人の成長に心から喜びを感じる方です。監督のあるべき姿ではないでしょうか。真の教育者です」と語った。

ヤクルトで監督に就いた広岡は、私生活にも管理の手を伸ばす。アルコール禁止、徹底した食事管理、門限厳守、休日返上で厳しい練習を課した。基本の反復に、技術を確固たる理論で裏付け、意識を変え、そこに“氣”を吹き込んだ。

「最近の指導者は“How To Say”で理論ばかりを口にします。大切なのは“How To Do”で、どうしたらそうできるか、どうやってそれをやるかを教え込まないといけません。わたしはそれを学び、信じながら道を進むことができた」

広岡イズムは選手の反発と背中合わせだったが妥協することはなかった。その後、80年代には西武ライオンズで3度のリーグV、2度の日本一に輝くなど、黄金時代を築いた。広岡は名将に上り詰め、そして伝説になった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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