開幕3連敗の虎戦士よ、先人の築いた伝統をつむげ-。4月1日からの巨人3連戦(東京ドーム)で、阪神は巨人との共同プロジェクトとして、1リーグ初年度の1936年、大阪タイガースの復刻ユニホームを着用する。「大阪」時代を知る日刊スポーツ客員評論家の吉田義男氏(88)が当時を回想した。

   ◇  ◇  ◇

プロ入りした1953年(昭28)は「阪神」ではなく「大阪タイガース」でした。確か、帽子のマークが「O」の時代です。日本は終戦後で、親会社の阪神電鉄も、球団も財政的に厳しかったと聞かされています。

入団する18年前の35年に株式会社大阪野球倶楽部の商号で誕生したのが「大阪タイガース」で、初代監督が森茂雄さん、主将は松木謙治郎さんだった。藤村富美男さんら諸先輩が支えてこられたから今日のタイガースが存在するのです。

すでに甲子園球場(1924年開場)はそびえ立っていたから、いかに野球のメッカとして偉大かを思い知らされます。そして球団事務所は今の阪神デパート(百貨店)別棟の5階で、わたしもそこで契約を交わしました。

赤バットの川上哲治さん(巨人)、青バットの大下弘さん(セネタース)が国民的スターで、その方々に対抗したのが、わが大阪タイガースで「物干しざお」のような長尺バットを使いこなした藤村富美男さんだったのです。

わたしは“ミスタータイガース”の藤村さんから「用具係」に指名された。今のように球団が車両で野球用具を運んでくれる時代ではなかったし、各自、手持ちでしたが、藤村さんが大きなボストンバッグを作ってくれた。

「T」と大文字で書かれたバッグは5、6本バットが入ったので、37インチの藤村さんのバットが3、4本、34インチだったわたしのバットを2本、そしてグラブをしまった。遠征バッグと両肩に重い荷物を乗せながら汽車で移動するのは苦痛でした。

球団が野球用具を運搬するようになったのは、巨人、広島などが先だったからうらやましかった。スポーツといえば野球と相撲ぐらいで、わたしもプロでやっていけるか不安でしたが、一心不乱に野球と向き合い続けたのを覚えています。

「大阪」から「阪神タイガース」になったのは61年です。球団社長は野田誠三さん、社長は戸沢一隆さん。球団歌「大阪タイガースの歌」も「阪神」に変わった。今の「六甲おろし」です。村山実、小山正明、三宅秀史、鎌田実らと切磋琢磨(せっさたくま)してきた。

自身のことを言わせてもらうと、周囲からは「吉田はプロでも活躍する」「いや体が小さいから無理やろ」という声が半々だったと思います。でもわたしには野球しかなかったし、タイガースでメシを食っていくしかなかったのです。

戦後の貧しい時代にあった職業野球は、プロ野球として国民的娯楽に育っていきます。選手、監督として優勝、日本一の栄光をつかむことができたのはタイガースのおかげ。後輩たちにはこの時代に野球ができる幸せを感じ、伝統をつむいでいくことを切に願います。

<大阪タイガース>

◆創設期の名称 1935年(昭10)12月10日に球団が創立した際の名称が「大阪タイガース」。

◆名称変更 40年9月25日に、いったん親会社の社名「阪神」と変更。47年に再び「大阪タイガース」に戻し、61年から「阪神タイガース」へと変更。現在に至る。

◆六甲おろし 佐藤惣之助作詞、古関裕而作曲の球団歌は、本来「大阪タイガースの歌」。サビの部分も「オウオウオウオウ~」の後に「大阪タイガース~」と続いていた。61年の球団名変更に際し、佐藤氏の遺族と古関氏本人の了承のもと、歌詞も変更した。

◆ダイナマイト打線 藤村富美男、別当薫、金田正泰ら強打者を擁した打撃陣を、日刊スポーツの高山方明記者が命名した。49年のチーム141本塁打は、1リーグ時代のプロ野球最多。

◆戦績 大阪タイガースとしては通算2213試合を行い、1269勝897敗47分け、勝率5割8分6厘の好成績。37年秋と38年春には、現在も球団唯一の「連覇」を達成。年間1シーズンとなった44、47年にも優勝を果たしている。