スマホの着信音が鳴った。メールやラインではない電話のそれだ。昨今、連絡のやりとりは“文字通話”で事足りている。味気ないとも思うが、電話が鳴ることはめったにない。はて誰だろう…。スマホのディスプレーには、毎年3月に必ず会う旧知の相撲関係者、いや友人の名前が表示されていた。奇遇なことに、自分も今日か明日にでも声を聞きたくて電話しようと思っていた。以心伝心とはこんなことを言うんだろうな…。そんな言葉を胸の中でつぶやきながら、受話器マークを押すなり「残念だったよね、場所がなくなっちゃって」。時候のあいさつもそこそこに、いきなりこちらから発した。

6年前、二十数年ぶりに相撲取材の現場に戻った私は、春場所初日の前日は必ず、その友人が開く、ちゃんこ料理店に足を運んだ。私にとっては、その絶品の鍋を食べなければ春場所は始まらない。その恒例行事もコロナで奪われた。3月14日初日の春場所は、東京・両国国技館での開催だ。

「いや…、春場所が4月だったら開催できたかもしれないけどね…。緊急事態宣言が出てて、こればかりは仕方ないけどさ。(旧知の親方衆や関係者が)毎年、大阪に来たら来たで気を使って大変は大変なんだけど、やっぱり大阪で本場所がないってのは寂しいよね生徒に会えないのもさ」。

私の第一声に対し、速射砲のように返す千葉公康さん(56)は、当時の二子山部屋に入門し80年春場所、初土俵を踏んだ。大関貴ノ花の内弟子として付け人も務め、部屋創設とともに藤島部屋へ移籍。12年半の土俵生活で、関取間近の幕下13枚目まで番付を上げたが、命にもかかわるほどの首痛で引退した。若貴フィーバーの真っただ中、チャンコ番などで縁の下からも人気部屋を支えた1人だ。

引退後、地縁のなかった大阪で、ちゃんこ料理店「ちゃんこ新(あらた)」を開く一方、小中学生の相撲少年を指導。その道場を巣立った少年が多数、角界入りし明日の関取を目指している。「生徒に会えないのもさ」の言葉に、寂しさがにじみ出ていた。

教え子を相撲界に送り出している縁もあり現在も、いくつかの部屋の師匠らと親交がある。関係者からの話を聞くほどに、制約の多い相撲部屋生活を憂いもする。昨年、コロナ感染が一休みした頃、東京のある部屋に行こうか…と思ったが、部屋の玄関で迎えられたとして、すぐに直行するのは風呂だと聞いた。

「感染予防なんですね。若い衆がコンビニに買い物に行っても、すぐに風呂に入らされるようなんです。冬も夜、窓を開けっぱなしで寝ているそうですよ、換気のために。床暖房で何とかしのいでるらしいけど、震えながら寝てるって。そのへんは本当に徹底してますよ、相撲界は」。東京行きはあきらめた。八百長問題が発覚し中止された10年前に続き、2度目の悲運に見舞われた浪速の春。昨年の開催も無観客だったことを考えれば、大阪の相撲ファンは、この11年で3度も観戦の機会を奪われたことになる。友人が嘆くのも無理はない。

だが、そんな相撲を愛する大阪のファンを角界はむげにはしない。かの友人の元に、ある部屋の師匠から先日、電話が入った。場所の開催を告げる、本場所会場に掲げられる、幟(のぼり)の掲出依頼だった。「大阪の人の名前で幟を立てたいんだ、春場所だから。『ちゃんこ新』の名前で。名前を借りるよ!」。本来、制作費などの費用は、いわゆる「広告主」が持つが、それはヤボな話というもの。経費は部屋で持つという。無念の思いをくみ取ってくれたのは、二子山部屋で同じ釜の飯を食い、4学年上の兄弟子だった常盤山親方(元小結隆三杉)だった。兄弟子とか番付の違いなど、時を重ねれば関係ない。長年、築いた信頼関係が絆となった。

両国国技館開催の春場所の、たまり席も「今回は大阪場所向けということで、そうゆう方を優先する」と芝田山広報部長(元横綱大乃国)も、大阪の維持員会を優先してチケット配分する方針を打ち出している。距離は離れていようとも、相撲界を支えようという思いに距離はない。来年こそきっと、大阪にも春を告げる本場所が戻ってくる。触れ太鼓が鳴らない今年は、両国の空に、春風に乗って大阪の心がこもった幟がはためく。【渡辺佳彦】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)